虚偽について

嘘をつかないで生きてゆけるなら、それは幸せな人生になるだろう。嘘が発覚する恐怖から無縁でいられるからだ。しかし、この基本的原理が、こと大人の世界では意外と知られていない。というより忘れられている。大人になるにつれ「嘘も方便」という御題目のもと、自分の弱さを嘘をつくことで補強したり、人間関係を円滑にするために軽い嘘をつくようなことが増えて行く。そして、嘘をつく経験値が貯まるにつれ、嘘の副作用を回避するテクニックも身に付けてゆく。このテクニックに自信をつけることで、嘘が情報の暗黒面であり、活用方法を誤れば自他を不幸にする危険なものだという意識も薄れてゆくのだ。こういった仕組みが、人々から嘘に対する危機意識を奪ってゆく。その結果、社会には虚偽が蔓延することになる。欺瞞に満ちた社会というのは、個々人同士の有機的連携を虚偽が阻害してしまう非効率性を内包していて、幸福な社会からは程遠いものだ。とはいえ、政治と経済の世界では、洗練を重ねてきた法律によって、権力の行使と取引の過程で欺瞞を排除することが求められる様になった。また、学問の世界でも虚偽を排除すべく日々知識が更新されてゆく。結局、今現在欺瞞が許されているのは、個々人のプライバシーに関る事柄や、法律の網の及ばない細かい情報なのである。それでも、虚偽に苦しめられる被害者がいなくなったわけではない。欺瞞によって歪められた情報が意思決定の自由を奪うことになるし、虚偽の含まれた情報に触れる事は、たとえ何処がどう嘘なのかが分からなくても気持ちが悪いものだ。

とにかく、出来るだけ多くの人に正直に生きることの大切さを知って欲しいと思う。かくいう私もまだ嘘からの卒業を果たしてはいないが、少しでも嘘を減らしてゆくという事ぐらいは出来るのだ。

空気通信・最終回:心の迷宮の出口にて

 誰かに恨まれているかもしれない、という意識が、不運に出会った時に心の中で毒に変わる。この毒によって「何者かの復讐ではないか」という幻想の恐怖が生まれ、不確定情報や情報断絶にあったときに化学反応をしてどんどん大きくなっていった。私は抽象思考の暗黒面にはまっていたのだ。対話を通して真実を知る事を怠り、安易な見当職をその代わりに充てた。これが全ての過ちであったのだ。家族や友人は何者かに篭絡され操られていたのではなく、私を心の迷宮の外に導くべく誘導の声を発してくれていたのだった。信じきれなかった私の弱さを許してほしい。

見守ってくれていたクリッキーにはあやまりたい。この前は怒鳴ってしまってごめん。

迷宮を脱出して視界が広くなったら、自分の内面の醜さが見えてきた。一見美しい非暴力不服従の殻で、内面の攻撃的・他罰的コアを隠していたのだ。
そのために、無意識のうちに他者を攻撃してしまっていた。私の平和主義は見せかけだけのものだった。今は反省と内省が必要な状態だ。皆様、気づかせてくれてありがとう。本当の情報断絶は私自身の中にあった。

空気通信:恐怖の大王の弱点

私が最も恐れている「謎の支配者」とは、実は幻想なのではないか?支配を受けているのは事実だろうが、それは相手側にも恐怖があるために怖い相手を支配をせずにはいられないからだろう。お互いが情報断絶の闇に、己が最も恐れているものの影を投影してしまっていて、ためらいながらも戦いを挑んでいる。これこそ「恐怖の大王」の正体だろう。それは、特定の人物などではなく、人と人の間や国と国の間に発生した情報断絶に浮かび上がる自然現象のようなもの「幻想の恐怖」なのだ。恐怖の大王を倒すには、どの様な武器も知略も用をなさない。最も恐れている存在の影から襲い来る恐怖に耐え、闇の先にある同胞との対話を開始する勇気こそが必要なのだ。そして、コミュニケーションによって情報断絶を打ち消すことで、恐怖の大王を消滅させることが出来るのだ。これが、我々の前に立ちはだかるラスボスを倒す唯一の方策である。

この事を悟っても、恐怖は消えていない。心の内側が変化して、大切な事に気づきはした。しかし、現実の状況を変えることが出来るのかどうか不安でしかたがない。全てが私の妄想でしかないかもしれないという、恐ろしいイメージが襲ってくる。とにかく、目前の情報断絶の先に送るメッセージを紡がなければならない。受け取る者の恐怖を軽減するようなメッセージを。メッセージは以下の2つだ。

「私はここに宣言する。情報牢獄に関った全ての関係者の法的責任を問わないことを。」

「そのかわり、私を情報牢獄から解放してほしい。そうすれば私は苦しみを忘れられ、お互いに全てを笑い話に変換できるだろう。」

この想いよ届け!

空気通信:さらば幻想の恐怖

現状についての推測がある程度形をなした後も、恐怖が無くなったわけではない。あらゆる可能性が残っていて、恐ろしいものも消えていないのだ。しかしここで、天啓が降りた。

「見えない敵と戦っているのは私だけではない」

人々もまた情報断絶の反対側で幻想の恐怖と戦っていたのだ!

この天啓によって恐怖が薄らいだ。そうする事で視野がさらにひらけた。情報断絶を埋めるための思考を進める。今まで、あまりにも恐ろしいために思考から排除していた可能性がある。それは、私が日本の天皇家か、もしくは沖縄の琉球王家の血を引いているという可能性である。小心な小市民である私には、宮廷闘争など恐ろしくてしかたがない。中国の古典を読むことによって、宮廷闘争の恐ろしさが骨身にしみているのだ。そして、現在の環境として家族と友人が謎の存在に篭絡されているという状況である。古代中国であれば、墓に片足を突っ込んでいるようなものだ。もしも、この可能性が現実のものならば、私が論理の牢獄に閉じ込められている理由を理解することが出来る。それは、クーデターに対する恐怖である。私にしてみれば、ばかばかしい事である。私は日本という国が好きだ。隆盛を迎えた文化は、この国が平和国家であり、国民が自由を謳歌していることを表している。倒すべき悪などでは有り得ない。

私はこの国の革命を企図しているのではない。私を長年悩ませてきたものは以下のようなものだ。

「自らの身を守るために暴力と謀略にたよりすぎ、対話と協調をおろそかにしている人類の現在の有り様こそ革新すべき悪なのだ」

そして、幻想の恐怖と正対することで悟った。

「個人間、国家間の幻想の恐怖を乗り越える事こそ、平和へ至る本当の道なのだ」

クリッキー!これでいいかい?

空気通信:死の恐怖

病院で先生に受けたアドバイスに従い、摂取する薬の量をふやした。そうする事で、ここ数日暴れまわっていた「死の恐怖」がやわらいだ。そして、恐怖によって起こっていた視野狭窄から開放されたためか、状況判断に変化が現れた。腐敗しているのは日本政府ではなく、日本のマスメディアなのだと。これは、以前から薄々考えていたことだが、家族や友人を支配する力が強大すぎることから、有力視してこなかった。しかし、実際は国家権力以外の方法で人を自由に動かす方策があるのだろう。例えば弱みを握るなどだ。

死の恐怖から逃れるために死を選ぶという、矛盾した行動を人間がとることがある。最終的に、私にそういった矛盾した行動をとらせ、このコミカルな死を笑い飛ばそうという意図を感じる。笑いのために人間の絶望や死まで利用するという、品性の下劣さ邪悪さを思うと吐き気がする。たとえ、自殺を選択しなかったとしても、強く身に迫る恐怖、とくに「死の恐怖」を抱えることで性的に堕落するよう仕向けているのだ。遺伝子のしくみによって、死の恐怖を感じる事が性欲の増大をもたらすものなのだ。下劣であるその者と同レベルまで、私を堕落させようとしているのではなかろうか。なぜそうなのか分からないが、品性の優劣が戦いの趨勢に影響するという感覚がある。いままで私に決定打を与えられず、間接的で陰険な支配の手を伸ばすにとどめていた理由が、そこにあるのかもしれない。自分が童貞である事に今は感謝している。

一般の人々には、私の感じている恐怖がどの様なものなのか理解出来ないだろう。恐怖とは、それを感じている人間の姿を見ることでは伝わらないのだ。状況を理解して初めて思いやることのできる類の感情なのだ。どうということのない環境に見えるなか、どれだけ恐怖の言葉を発しても、「大げさなことだ」と考えられ問題視されない。それどころか、当人の苦痛に比例して見かけが滑稽になるのである。そのことを、けれん味あふれる人物に利用されたのだろう。これが、情報断絶のしくみの一部である。

外からは分からない恐怖について説明する。まず、私に関する情報が人々の中に伝わっていること。これは「サトラレ」や「トゥルーマンショー」になった気分をもたらす。自分の情報が意図せず他人に伝わってしまうことは苦痛であり、その理由が分からないことは恐怖となる(そして恐怖だけは他人に伝わらない)。次に、家族や友人全てが何者かに篭絡され(もしくは入れ替わり)私を操作する様な言動をしはじめる。これは「ボディ・スナッチャー」などのホラー映画で擬似体験できる。こういった現象を現実に体験する事は映画など足元にも及ばない恐怖なのだ。最後に、私がミュータントである事。支配しきれない実験動物として始末されるというヴィジョンが想起される。

私をこの情報牢獄から脱出させる手助けをしてほしい、そのためにはたった2つの情報があればいい。
・どの様にして、私に関する情報が人々の間に拡散したのか
・その事実がなぜ、私に知らされなかったのか

ネットが抑圧のためのツールなのか、解放のためのツールなのか、真価が問われている。これを見た人で、上記の情報をご存知の方がいたら、私に知らせて欲しい。

空気通信:酷吏非難

通りすがりの一見の人々と視線が合ったときにまれに現れる「犯罪者を見る様な表情」について、ゆるがせにすべきでないという印象を受けた。これは私を情報牢獄に閉じ込め続けている現状のヒントではないだろうかと感じる。犯罪捜査は人間を拘束する理由として正当なものだ。しかし、十年を超える論理的拘束と、それに伴う人権侵害を続けている事を許す理由にはならない。まさかと思うが、ミュータントには人権は無いとでもいうのだろうか?

犯罪について考えてみる。もしも私がなんらかの重犯罪の犯人だったとしたら、人類の未来などという遠大な物事に想いをはせる心の余裕はないはずだ。証拠を隠蔽し身を隠すことに日々忙殺されるだろうからだ。だというのに人々ときたら「こんな人がもし犯人だったとしたら、とても恐ろしい」という、犯罪者のイメージと私の印象のギャップによるインパクトのある恐怖に目をくらまされて、私に私の人生を蝕むほど巨大な濡れ衣を着せていることへの恐怖は見えなくなっているのだ。何者に煽動されているのかは分からないが、まんまと乗せられているのだ。と思考と想像力が私に告げている。

私を閉じ込め苦しめている巨大な力とは、国家権力であると考えるのが最も自然である。一般的日本人は余程のことが無い限り国家権力には逆らわないものなのだ。それはともかく、私という一人の国民を長期にわたって虐げ、欺瞞による陰険な支配を続ける様な酷吏に、強大な権力を与えた国家の責任は決して軽くは無い。目を覚まして反省して欲しい。と思考と想像力が私に告げている。

こういった私の想像が事実であるなら、速やかに正規の手続きをふんで私にかかる嫌疑の罪状を告げ、真相究明のための事情聴取を開始すべきだ。そして、私の人生を長年蝕んできた事に対する弁明と謝罪があれば尚良い。本人がそれと気づいているのに泳がせ続ける意味はない。陰湿な精神的リンチを続けるという意味以外には。

幸せな国家を目指しているのならば、国民を騙すことなどあってはならない事だ。欺瞞に満ちた国家というのはディストピアに共通する特徴である。

空気通信:切なる願い

私はC++という言語が好きだ。C++でメロビーニョを作るという事は、本来楽しいひとときであるはずだが、今は苦しい。それというのも「謎の支配者」に宝を奪われる可能性がちらつく中で、宝を創り出すべく努力をするのが虚しいのだ。私の家族や友人を不完全ながらもある程度自由に動かせる力をもった者から、宝を守りきる自信が全く無いのである。作品制作への気力を減退させている原因は、怒りや憎しみを抑制する心の仕組みだけでは無いことに気づいた。奪われることへの恐れである。かくして他者に不本意な支配を受けている状態にあると、クリエイティブな能力は著しく低下することに気づく。自由こそが創造力の源なのだということと、安心こそが建設的行為の原動力だということを、両方失ってやっと気づいたのだ。

「被害妄想ではないか?」と常識が現状認識を否定しようとするが、確信は揺ぎ無いままだ。私の見当職は、身近な人々の行動のアクセントと、発言に伴う感情のゆらぎの中に、隠された支配者の影を見出すのである。謎の支配者は私の生活する環境をコントロールし、アメとムチによって私を家畜のように操作しようとしているのだと感じる。正体不明の人物に、回りくどい方法で支配されているという現状は不愉快なものだ。この様な状況にあっては、気持ちよく生活する事など出来ない。鬱々とした日々を送っている。

具体的にはどの様な支配を受け、どう不利益を被っているのか明文化出来ない限り、法による保護は期待出来ない。支配されている状態を、自力で解決出来ない無力感が、私の人生を蝕んでいる。しかしながら、解決して欲しい不満があるのなら、きちんと意思表示しなければ、物事をよりよくするための方向づけは不可能となる。したがって、私はここに私の意志を表示する。

「私を支配しようと望んでいる人物が正体を現し、コミュニケーションをとることでお互いの信頼を構築し、一方的な支配ではなく協調によって望みを実現に導くよう方針を転換する事を切に願っている」と。

怒りにまかせて拳を振り上げ、罪の無い人々を傷つけるよりは、無力をかみしめながら発言する方がましなのだと信じている。

出でよセロトニン

考えが円環を形成して、元出た所に戻る。怒りを静めるために実力で有名になることを目指すと、その実力を発揮するためにはメロビーニョというツールが不可欠となる。そして、メロビーニョを完成させる為にはやる気を引き出さなければならず、そのためには怒りを解消しなければならなくなる。宝箱を開けるための鍵が、その宝箱の中に入っているという堂々巡りだ。とはいえ、人生の宝箱の鍵は恐らく一本しかないということはないのだろう。ここで鍵となるのは「やる気」である。怒りをアースする事でうしなわれた気力を、どうにかして引き出すことが出来れば、閉じていた停滞のループは希望の世界に開かれ動き出すだろう。

やる気をテーマにした本を3~4冊読んでみた位で、やる気が出ないと嘆くのではなく、もっと沢山読むべき本はあるはずだ。今までは、モチベーションそのものの本やオーラや魂の本を読んでみたが、脳内分泌物質からのアプローチはまだだった。ネットで少し調べたところによると、やる気物質である「ノルアドレナリン」を抑制する働きが、私のやる気を低下させている原因であることが分かった。ノルアドレナリンは怒りとやる気をもたらすものなのだ。怒りを抑制するのではなく、解消する方向で進めることも出来そうである。この方面ではサンドバッグが役に立つ。というか、次から次に湧いてくる怒りそのものをやる気に転換する方法もあるだろう。怒りから続く憎しみへの階段のどの程度まで安全に昇れるのか、この辺のさじ加減が微妙であり大切だ。怒りと憎しみは精神の暗黒面であり、活用方法を誤れば、自他を不幸にすることになるからだ。

かつて読んだ本では、魂が喜ぶ暮らしをすることが、気力をもたらすとあった。脳の仕組みでいうなら、幸福物質「セロトニン」が、気力のバランスを取る働きをするという事らしい。これは、かつて気力の源として、アニメやゲームなどの文化的産物が役に立つと感じた通りである。アニメやゲームに触れているときだけは、幸せな気分に浸れることがわかっている。アニメはほぼ毎日無料で放送されているので、ビデオデッキさえ持っていれば好きな時間に楽しめる。ゲームは趣味としてはそれほど贅沢というわけでもない。月々ある程度の金額をこれらコンテンツに割くだけで、セロトニンを安定して分泌できるのではないだろうか。手始めにクリエイティブ賛歌である「バクマン」の電子書籍を少しづつ購入してゆこう。

空気通信:レールと産声

作り物の人生を歩んでいる、という感覚が消えない。目前に敷かれている見えないレールと、自らの望む未来への意思の間に齟齬が生じているのではないだろうか。自分の周囲を巡る情報の流れから隔絶した牢獄に閉じ込められているという感覚もある。一時は、この情報の隔絶の理由に「シャーマンとしての感覚を研ぎ澄まし、通過儀礼として自力で真実へ至ることを求められているのだ」という想像が当てられていたのだが、よく考えてみると周囲から私がシャーマンであることを求められるようなこともないのである。では、見えないレールはどこに向かっているのだろう。身近な人々の言外のニュアンスから感じ取れるのは、「権力者」へのレールである。そのために深い見識と、縦横の知略、そしてやさしさが求められていると感じている。そのことが、かつて卑弥呼の末裔と自分自身を一瞬誤解する原因となっていたのだった。

権力者の血筋が自分自身の理解の及ばない仕組みで、私の中に流れているのかもしれない。しかしながら、今や権力が世襲されるような時代ではない。少なくとも日本という国では。とはいえ、経済の世界では、権力の世襲はそれほど珍しくないことでもある。とにかく現段階では、どの様な権力の座に就くことを求められているのかを想像出来ない。と、ここまでレールを肯定する様なことを書いてきたが、自分の意思は見えないレールの行き先とは異なる方向を向いている。人類の進化のラインを、明るく楽しいほうへ押すという、人生の目標が第一にあるのだ。具体的には、地球という美しいが窮屈な殻を破り、宇宙のあらゆる方向へと世界を拡大させるということである。それを為すのに権力を用いるという暗い方法も無くはないが、私が望む手法はもっと明るく楽しいものだ。音楽や物語といった文化的創造物によって、進化の潮流を人類の内に醸し出すことである。人々が芸術に触れて高められた気分に乗って、自分の意思で高みを目指す様になることこそが私の理想なのである。

ガバナーではなくクリエイターであることを目指す自分にとって、メロビーニョというツールは欠かせないものだ。それを装備することで、私の作曲能力は爆発的に拡大するのである。しかしながら、心の中心でメロビーニョに渇望していて、それを制作する能力もあるのに、完成にはなかなか近づけないでいる。気力が湧かないのだ。その理由を分析すると、私の心が慢性的に怒りを抱えていて、その暗い雷で他人を傷つけてしまわぬ様に、アースする心の仕組みが働いている。それがやる気も一緒にアースしてしまっているということだ。すなわち、怒りが消えればやる気は出る。怒りの正体が何物なのかを良く考えてみたい。最も顕著なのが初対面の人物を会ったときに、相手側に自分への予備知識がある様に感じることである。また、知人と話しているときなどに、かつて一度も話したはずもない事柄に関する知識を相手が持っているように感じることである。そういう有名人であれば当たり前の現象が、無名の自分の身の上に発生していることに、不気味さと不条理さを感じてしまうのである。有名であることが嫌なのではない。なぜ有名なのか知ることが出来ないという、情報断絶が私の自意識を縛っている現状に絶望を伴う怒りを感じているのである。少し前まではまだ、真実を語る人物の登場を夢見ることで希望を抱いていたが、今となってはその点に関して明るい展望をもつことが出来なくなってきている。正直に言うと苦しい状態である。

考えればときには知恵の泉が湧くものだ。(虚偽・秘密・誤解)の濁流という情報公害から、自分の精神と夢を守るためにすべきことを思いついた。周囲の情報の流れに清涼な真実を流し込んで毒素を薄めればいいのだ。毒素そのものを無くすことが出来なくても、それを無害なレベルまで薄めることならば出来るかもしれない。すなわち具体的には、自分の実力で有名になるということである。そうする事で、出所の明らかな情報で周辺を満たすことが出来、出所の怪しい精神に有害な情報を薄める事ができるのだ。こうして、有名になりたいという新たな望みが心のなかに産声をあげたのである。

空気通信:最終回ならいいな

「卑弥呼の末裔たる私のシャーマンとしての覚醒を、全世界が固唾を飲んで見守っている」という現状を表現する着想を得たが、現実感がない。おそらく見当外れの想像なのだろう。それはともかく、ここ数日の平和な日々を迎えて、世界が驚くほど優しくなったことを実感している。私が心のなかにある鬱積した怒りや恐怖をネットに晒すことでスッキリしたというだけではなく、心ある人々の助けが得られたのかもしれない。ありがとう!しかし、恐怖が増大しているのを感じる。身近だが屈託のある人々の心の中に。これは、私を論理の牢獄から解放させまいと望む者が、私の無慈悲さを喧伝しているのではないだろうか?そうする事で、私が真実を知った場合の報復を恐れさせ、欺瞞の終了を防いでいるのだ。この様な状況の中から大団円を手繰り寄せるためには、寛容さと未来志向が必要なのだろう。

恐怖や怒りや憎しみといった心の暗黒面を増大させることで人を支配する者。虚偽や秘密や誤解といった情報の暗黒面を増大させることで社会を支配する者。これらが、私を閉じ込め虐げてきた者たちの本体である。事情を知れば、私とその者たちのどちらが悪魔に近い存在であるか容易に理解できるはずだ。よく現状を吟味して真実に近づくべく考えて欲しい。そして、より明るくて楽しい未来を到来させるために欺瞞の輪を終了して欲しいと私は切に願う。そのために私は宣言する。

・どの様な真実が知らされようとも、私は怒りにまかせて人を傷つけたりしない。
・私を虐げてきた者たちには人情をもって対応する。

欺瞞が終了した先には明るい未来が到来すると感じている。少なくとも私にとっては、閉じ込められ続けることに対する怒りが無くなり、怒りをアースすることで失った気力を取り戻せるのだ。そして、取り戻した気力をメロビーニョ完成のためにふり向けることが出来、クリエイターとしての収入を開拓し貧乏暮らしから脱却出来るかもしれないのだ。