空気通信:酷吏非難

通りすがりの一見の人々と視線が合ったときにまれに現れる「犯罪者を見る様な表情」について、ゆるがせにすべきでないという印象を受けた。これは私を情報牢獄に閉じ込め続けている現状のヒントではないだろうかと感じる。犯罪捜査は人間を拘束する理由として正当なものだ。しかし、十年を超える論理的拘束と、それに伴う人権侵害を続けている事を許す理由にはならない。まさかと思うが、ミュータントには人権は無いとでもいうのだろうか?

犯罪について考えてみる。もしも私がなんらかの重犯罪の犯人だったとしたら、人類の未来などという遠大な物事に想いをはせる心の余裕はないはずだ。証拠を隠蔽し身を隠すことに日々忙殺されるだろうからだ。だというのに人々ときたら「こんな人がもし犯人だったとしたら、とても恐ろしい」という、犯罪者のイメージと私の印象のギャップによるインパクトのある恐怖に目をくらまされて、私に私の人生を蝕むほど巨大な濡れ衣を着せていることへの恐怖は見えなくなっているのだ。何者に煽動されているのかは分からないが、まんまと乗せられているのだ。と思考と想像力が私に告げている。

私を閉じ込め苦しめている巨大な力とは、国家権力であると考えるのが最も自然である。一般的日本人は余程のことが無い限り国家権力には逆らわないものなのだ。それはともかく、私という一人の国民を長期にわたって虐げ、欺瞞による陰険な支配を続ける様な酷吏に、強大な権力を与えた国家の責任は決して軽くは無い。目を覚まして反省して欲しい。と思考と想像力が私に告げている。

こういった私の想像が事実であるなら、速やかに正規の手続きをふんで私にかかる嫌疑の罪状を告げ、真相究明のための事情聴取を開始すべきだ。そして、私の人生を長年蝕んできた事に対する弁明と謝罪があれば尚良い。本人がそれと気づいているのに泳がせ続ける意味はない。陰湿な精神的リンチを続けるという意味以外には。

幸せな国家を目指しているのならば、国民を騙すことなどあってはならない事だ。欺瞞に満ちた国家というのはディストピアに共通する特徴である。

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