不幸について

近頃はこの身の不幸を呪う日々が続いている。その不幸感の元となっている主な要素は、新しい仕事の内に、仕掛けられた数々の罠を見出している事である。慣れない職場で生じる大小のトラブルに、何者かのコントロールの気配を感じずにはいられないのだ。ありふれた日常の中に陰謀の幻影を投影してしまう事は、統合失調症の症状の一つであることは理解しているが、そのことを割り引いて考え直しても怪しい気配が消える事はない。にもかかわらず、長年にわたり続けてきた、「状況を作り出している何者か」との意思の疎通の試みは全く成功していない。もはやその何者かはコミュニケーションを拒絶しているとしか思えない。自分の生殺与奪を握っているかもしれない存在が、コミュニケーション不能であるこという現状が、そこはかとない恐怖と不幸感を醸し出している。祈りを送り天啓を得るという緩やかなやり取りでコミュニケーションをとることの出来る神のほうが、まだしも身近な存在である。

私の現在のネットでの意思表明は送信方向に完全に一方通行である(友人たちによるレスポンスを除けば)。だたし、15年ほど前の状況を思い起こすと、その頃の私は受信専門だった。今ほどネットが便利でなかったあの頃はSNSも一般的でなく、ホームページを持つという行為のハードルも高かった。その様に情報発信が難しい状態で、巷に流れる物語や家族友人の言葉に込められた当てこすりを継ぎはぎして、得られた未知の存在からのメッセージを精神に蓄積させてゆき、反論も訂正も出来ない出所不明の情報の濁流に飲まれ正気を失ってしまうのである。そういったあの頃の苦境を思い出せば、現状がよほど健康的なのは理解できる。ぶつけようの無い怒りや恐怖が湧いてきても、ネットに向かって表現をするという行為で苦しみを和らげることが出来るのだ。

自由時間に行う自己表現で癒されるのは確かだ。しかし自由でない時間に強いストレスを受けたときに自分の命を守る術が限られているのは問題だ。それというのも、不幸感が頂点に達したときに心に潜む悪魔がささやくのである。「自らの命を差し出すならば、おまえを苦しめている者たちに後ろめたい思いをさせる事が出来るぞ、すなわち自殺だ」と。この様な甘言のためにどれほどの人間の命が奪われてきたのか考えると恐ろしいことだ。そして、自分の命を自ら奪うことがどの様なことなのか、よく考えてみるのだ。たしかに、強い苦しみを受けたことを表現する事はできる。それによって、害をもたらした者たちをおびやかすことも出来るだろう。しかしながら、身近な優しい人々をも苦しめてしまうのではないか?そして、害をもたらした者の心の中に本当の悪があるならば、暗い喜びや達成感を与えてしまうことになるのではないか?自分の生きてきた世界の行く末を想像するならば、自殺が悪手以外の何者でもないことが理解できる。そういうやりとりを経てかろうじて自分の命を自殺から守ることが出来た。とはいえ、もしも人類や社会に対する憎しみを今よりも強く抱えていたとしたら、自らの自爆テロを防ぐ方法を思いつけない。いや、もしかすると「あなたに死んでほしくない」という一言が大事なのかもしれない。強い憎しみを抱える人間を包み込む無償の愛を、もしもこの世に広げることが出来たなら、テロは減っていくのではないのだろうか。テロの原材料は不幸という感情なのだ。

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