魂とモチベーション

最近、スピリチュアルなHPや本を読み漁っている。精神的にモチベーションが低下したために、長い間作品制作が停滞してしまって、対応策をひねり出す必要に迫られたのが理由である。最初はモチベーションを高めるコツを書いた本などを読んでいたが、実践してみるとそれだけでは不十分だった。魂の底から湧き上がる活力を得られれば理想的である。そのために、魂という非科学的な存在に関する知識を求めることとなった。しかし、私には霊感が全くないので、肉体を持たない魂が浮遊している様を見ることが出来ない。こういった目に見えない存在に関する知識は、真偽の見極めが難しい。まぁ、目的がモチベーションの向上なので、魂の知識からくる向上方法を実践してみて、実際にやる気が出るかどうかを検証すればいい。ぶっちゃけ、魂の知識が間違っていても、モチベーションさえ上げてくれれば文句は無いのだ。

少し読んでみたところによると「魂が喜ぶ生き方をすると、問題も自ずと解決してゆく」ということらしい。どの様にして魂を喜ばせるのかというと、食べたい物を食べるとか、好きな音楽を聴くとかいった欲望充足が大切で、さらに魂の倫理観に反しない行動を心がける事も重要らしい。後ろめたい想いが生じると、魂が萎縮してしまうので、倫理観は特に重要のようだ。あとは、規則正しい生活リズムだとか、適度な運動とか、整理整頓などといった精神的肉体的に健康な生活も魂が喜ぶらしい。

魂を喜ばせる生活の実践をする。先週までは朝に月路に歩いて行き、月路で作品制作を進め、昼には家に帰り家で昼食をとり、午後は家で作品制作に取り掛かるというリズムであった。これは健康的ではあったが、モチベーションは低いままだった。特に家での作品制作が進まない。このゲームやマンガに囲まれた環境では、気が散ってしかたがなかったのだ。そこで、昼食を池袋で外食することにして、午後も月路で作業する様に変更してみたらモチベーションが向上した。増改築を繰り返した結果汚く複雑化してしまったメロビーニョの、更なる増改築に切り込むためには高い精神的な障壁があったのだが、軽く越えられた。

といった手応えをつかんだところだが、製作資金が尽きてしまっている。そのために仕事を探している。仕事が見つかったら作品制作を中断しなければならないが、その次の制作フェーズでは好スタートを切れるだろう。

ゲームが光をあてる2つのことわざ

■能力の異なる3人のガンマンでバトルロワイヤルを行ってみた

a.命中率99.9%の凄腕ガンマン(計算上は丸めて100%とする)
b.命中率60%の中堅ガンマン
c.命中率30%のヘボガンマン

全員ともお互いの能力は熟知していて、毎ターンとも自分が生き残る最善を尽くす戦略をとるとする。

1ターン目
aがbを狙いbは100%の確率で倒れる。
bがaを狙い、cもaを狙う。aは0.6+0.4*0.3=72%の確率で倒れcが勝利する。

aが生き残っている場合(28%)2ターン目に突入する。
2ターン目
aとcが互いを狙う。
0.28*1.0*0.3=8.4%の確率で全滅する。
0.28*1.0*0.7=19.6%の確率でaが勝利する。

まとめ
aが勝利する確率は19.6%
bが勝利する確率は0%
cが勝利する確率は72%
全滅する確率は8.4%

という有名なゲーム理論のシミュレーションがあって、考えさせられる結果をつきつけてくる。バトルロワイアルの混戦状態では、能力の高さが必ずしも勝利につながらないという皮肉な結果なのだ。「攻撃は最大の防御である」という諺は、この世界では通用しない。それが通用するのは1対1での戦いの場合や、互いの能力を考慮した戦術を展開出来ない情報不足での戦いの場合などである。で、このシミュレーションから出てくる諺は「能ある鷹は爪を隠す」である。さきほどの3人のガンマンの世界でも、各人の能力を隠すことが出来ていれば、勝率は能力順になる。有能な人物が凡庸の仮面を被るのは謙遜のためばかりではなく、生き残るための処世術でもあることを忘れてはならないのだろう。

懐古主義のビジョンについて

昨日友人とヴァーチャル飲み会をして、なかなか哲学的な示唆に富んだ会話をたのしめた。その後いろいろと思索して一つの答えを得た。

懐古主義におちいった心が映す美しい過去のイメージは、思い出補正によって本当の過去からは乖離してしまっていることが殆んどだが、その作られたイメージ自体は将来自分たちがたどりつくべき世界のひとつのヴィジョンであることは、間違いないのではないだろうか。

メロビーニョは怖くない

とある友人からのメッセージを読んで思った。メロビーニョの完成で不幸になるような人はいるのだろうか?と、もし、そのような人がいるのなら、メロビーニョは恐怖の対象にちがいない。そして、恐怖を感じているのが権力者であったり、豊富な人脈をもつ人物だったとしたら、メロビーニョの完成を阻止すべく動くにちがいない。と、誇大妄想の深遠を垣間見ることしきりの今日この頃。しかし、全くないとはいえないその恐怖を取り除く必要はある。

まず、メロビーニョの完成によって楽器演奏の熟練者が不要になるのでは?という誤解に基づく恐怖について考える。メロビーニョによって作曲というプロセスに必要だった楽器演奏能力という前提条件が不要になる。だからといって、誰でもがメロビーニョを使いこなせるわけではない。やはり、音楽的素養のある人物でないとメロビーニョを深く使いこなすことは出来ない。とりあえず使い方を覚えて、作曲の基礎をマスターしてしまえば、曲を創り出すことはできる。しかし、人の心に響くものが出来るかどうかは、音楽的センスと作曲技術に左右されるだろう。そして、音楽的センスと作曲技術は、楽器演奏の熟練の過程でも高められるものである。つまり、楽器演奏の熟練者はメロビーニョを使いこなすという面でも、一歩先んじているのだ。

次に、メロビーニョによって作られた楽曲が、そうでない楽曲を売上シェア争いで駆逐してしまうのでは?という誤解に基づく恐怖について考える。メロビーニョの作曲サポート機能を活用すれば、斬新な切り口の転調やコード進行の曲を創り出せる。とはいえ、伝統的音楽や各時代の流行曲などが霞んでしまうほどの名曲が綺羅星のごとく誕生するのかどうかは疑問である。たしかにメロビーニョによって音楽の幅は広がり、いままでになかった口当たりの曲は作れるだろう。しかしながら、それは新しいジャンルとして、音楽市場を拡大することはあっても、伝統と流行による楽曲の価値を失わせるほどのものではない。

最後に、メロビーニョが安価で売り出されたら、他のミュージックツールがシェアを奪われるのではないか?という誤解に基づく恐怖について考える。メロビーニョの試用版は無料で、完全版は2千~3千円で公開しようと考えている。たしかに、他のミュージックツールに比べると安い。しかし、致命的なことに、メロビーニョにはDAWとしてのオーディオ編集機能が全く無い。つまり、直接にはボーカロイドやアナログシンセエミュレーターなどと接続できないのだ。これらの機能を利用するためにはDAWの機能を持ったミュージックツールを利用する必要がある(メロビーニョからDAWへは標準MIDIファイル出力機能で楽曲を転送出来る)。つまり、メロビーニョが売れればDAWの需要も増えることになる。

以上のことから、メロビーニョによって不幸になる人間の数はほぼ0に近いと考えている。

心の闇との会話

闇:「何年もかけて作った作品だろうと、売れないものは売れないのだ、このまま見返りのない作業など続けていても損をするだけだろう?」

私:「たしかに、作品が売れなければ残念な気持ちになるだろう。そして、作品制作を本職にしたいという願望は砕け散るかもしれない。けれど、作品制作の本当の目的は金儲けではなかったはずだ。メロビーニョは楽器の弾けない自分が作曲をするために、必要不可欠なツールなのだ。そして、音楽的に同じような境遇の人物にとっても不可欠なツールたりうる。だからこそ衆目の届く場所で、しっかりと告知出来れば、いくらかは売れるはずなのだ。そして、メロビーニョを求める人物の抱く音楽的創造への渇望を癒す事は、数の多少を問わず有益なことだと思う。」

闇:「ヒットしない事は解っているようだな。というより、身近でない場所でひそかにヒットしたとしても、情報牢獄の仕組みがそれをもみ消しかねない、と考えているな。結局報われないではないか。」

私:「音楽的創造への渇望は自分の中にもみなぎっている。それを癒すだけでも、十分報われていると思う。そして、音楽的創造活動を再開できれば、自分の作る作品の幅が広がり更なる収入源の開拓につながる。メロビーニョが最後の作品というわけではないのだ。また、情報牢獄が収入への道を閉ざす可能性はたしかに看過できない。だからこそ、脱出のために情報牢獄の看守を文化的に魅了する表現力を高めなければならないのだ。メロビーニョは武器だ。人を殺すのではなく、人を幸せにする武器だ。」

闇:「時勢がら音楽方面に収入を求めるのは愚かなことだろう?音楽市場は縮小の一途をたどっているぞ。」

私:「縮小しているということは、音楽市場がゼロサムゲームではない証拠。市場に新たな価値を提供できれば縮小を拡大に転じさせることも出来るはずだ。メロビーニョによって、新天地を切り開くことだって不可能ではない。演奏能力に依存する現在の音楽から、演奏能力に依存しない音楽という新境地へ至る事が出来るはずなのだ。たとえ自分にそれが出来なかったとしても、メロビーニョを使いこなすことで才能を開花させた誰かがそれをやってのけるかもしれない。」

闇:「お前のような楽天的な人間は脅かし甲斐がないな、とはいえお前の本心が失敗を恐れていることは解っている。私がこうやってお前に問うのも、恐怖を乗り越えたいからに他ならない。私はお前なのだ。」

本物の力とは

 力とは、人間を幸せにするためのもの。場合によって、自分を幸せにするのか他人を幸せにするのかという違いはあるものの、他人もしくは自分を虐げ苦しめなければ、誰かを幸せに出来ない様な力は本物とはいえない。そんな未熟で不十分な力にたよっていてはいけない。もっと強くならなければならない。

誰かを虐げる様な力には、欠けているものがある。それは、判断力と思いやりである。力の行使によって苦しめられるかもしれない人を思いやり、その人に対する被害を最小限にすべく力の行使を制御し判断する能力。この能力を伴ってこそ、本物の力になる。

本当に強大な力をもつ人間が幸せになるため、または誰かを幸せにするためには、自分や他人を虐げる必要がない。幸せを自分の力で創り出せる者は、他人から幸せを奪う必要がないのだ。現実世界はゼロサムゲームではないのだ。幸せとは人と奪い合うような有限な資源ではなく、能力次第で無限に創造できる人生の作品なのだ。

空気通信:人類に価値はあるのか?

普通に生活していても、ときおり強烈な疎外感と、ぶつけようのない怒りと、名状しがたい恐怖が心を占めることがある。表面的には平和な日常と自由を謳歌しているはずなのだが、論理の牢獄に閉じ込められて、見せ掛けの自由しか与えられない身分をうらめしく思うことしきりである。私が現在の境遇に不満を持っているならば、はっきりと意見を述べるべきだろう。特殊な環境は他人の理解と思いやりをよせつけないものだから、表現力で理解と思いやりを引き出すしか、状況の改善された良い未来を到来せしめることは不可能だろう。

与えられない情報は、感受性と想像力を最大化して心に結んだ像を元に、考えを巡らせることで補うしかない。感受性と想像力は、私の周囲に対する情報操作の実在を捉えている。それが最大の不満の源なのだが、そのことをもっと深く考えてみたい。
私に正しい情報が与えられないことで、私は正しい判断が下せない。つまり私の自由意志は大きく制限された状態なのだ。体ではなく心と知性が拘束されているのだ。基本的人権である自由権のうちの、精神の自由が侵害されていると考えられる。たしかに、憲法では意志の奴隷的拘束は禁止されていない。だが、情報倫理としては、情報操作で他人を縛ることは善とはいえないことだろう。それは痛みをともなわず、場合によっては拘束されていることに気づきもしない可能性もあるが、実質的には不自由な状況を作り出していることに間違いはない。つまり、目に見えない暴力の一種であるともいえる。この様な暴力にさらされて、不満を感じないほうがどうかしている。現に、心に湧き上がった怒りは心身の活力を奪う原因になったし、強大な支配力にさらされている現状は恐怖するに足る状況だ。そういった心に対する負荷が、現在では精神の健康を害しつつあるし、かつては病的妄想の海にたたきこまれる原因でもあった。

同時に守られているという印象も受けている。周囲の人々の思いやりを引き出すことに成功したのかもしれないとは思う。だが、喩えて言うならば、肉になる前の家畜が狼から守られるという状況との違いも見出せない。視界の外側で、無言で守られるということでは、恐怖を消し去ることは出来ないのだ。

恐怖のうち最も大きなものとは、「真相に近づくことで、命の危険が増大する」というものだ。かつては、その考えが想起されたせいで真相から遠ざかることになった。だが、今はこう考えている。

「真実を隠蔽するために私を殺すような種族に、残りの半生をかけて奉仕すべき価値はない。」

これは、人類が超人類へ至ることの出来る価値ある存在であるかもしれないという希望と表裏一体だ。このまま、精神が拘束された状態に甘んじて生き延びても、意味のある人生にはなりそうにないのだから、自分の生命と人類の価値をかけて賭けをすることにした。全人類が私に対する欺瞞をやめ、私を情報の牢獄から開放するよう希望する。私に真実を語る人物が現れることを望む。私の個人的な情報がどのように世界に拡散したのか、私はなぜその拡散の事実に触れられなかったのか、この辺から語ってくれるとうれしい。

空気通信:幻の後宮の功罪

最近かなり楽になってきたが、風の属性で仕立てられた迷宮に囚われているという感覚は消えることがない。そういう昨今、現実を歪めている存在に関する考察をすすめているとき、「幻の後宮」という着想を得た。それがどの様なものかというと、私を主として戴く後宮が人々の心の中に映るということである。それは、男性の羨望と嫉妬を作り出し、女性の忌避を呼ぶ。私にとっては社会生活と自由恋愛の障害となっているものだ。後宮を持つことは私を含め大多数の男の夢であるのはたしかだ。しかしそれが幻で出来ていて、後宮の主にすら進入不可能であるとき、害こそあれ良いことなど一つも思いつけない。控えめに言っても迷惑な存在だ。

視点を変えて、なぜそんなものが存在するのかを考えてみる。存在するといっても、その様な建築物があるとか、組織が実在するとかいう可能性は高くないように思える。しかし、アイデアや構想はあるのかもしれない。私には思い当たるふしが無いわけではないのだ。最近まであまり意識してこなかったが、私はミュータントなのである。この特異な遺伝子のもたらす性質のなかから、何か価値のあるものを見出した人物がいるのではないだろうか。その人物が私の遺伝子を人類に浸透させる計画を立案したと考えるならば、現状が理解可能なものとなる。

納得出来る答えが全て正解というわけではないと、冷静になりたい自分が囁くが、幻の後宮関係者には言いたいことがある。

「仲間に、ならないか?」

ぼっちは辛い状態である。それが解消出来るならば、過去の多少の迷惑ならば水に流す用意がある。そして、自分の性質の中に価値を見出してくれることには素直に喜びたい。ただし、後宮などという自分の身の丈に合わない存在を容認することは出来ないが、己を知る者の力にはなりたいとも思う。我々の間を隔てている厚くて高い壁を崩して、協調と連携の時代をスタートさせようではないか!

つまり自画自賛が大事

 夢のためにやる気を保ち続けるのは、本当に難しい。心の糧である賞賛の言葉を他人から引き出すのは難しい事だから。しかし、誰も褒めてくれないからといって、やる気を失くす様では夢そのものが餓死してしまいかねない。だから私は、自分で自分を褒めることにしている。クリエイターとして大成するためには、自画自賛をする能力と未来に対するうぬぼれは欠かせない資質なのだと思う。例えば私の場合は、ipodのお気に入りには自分の曲をいくつか入れていて時々自分の荒削りな才能を再確認する。また、過去に書いた文章を読み返しては視点の鋭さを再認識する。そういった、自分へのエールを送る時間をもって、自分の中の光る原石を見失わないことと、能力の伸びしろを知覚することが、将来への希望をもたらしてくれる。今はまだ誰も見向きしない路傍の石の様な存在でしかないが、切磋琢磨することでいずれは燦然と輝く星になれるのだと。そして星に手が届いたとき、かつて苦しみもがきながら世界から受け取った使命というものを、果たすためのスタートラインに立てるのだと。

ちなみに、自分の作品を自画自賛することと、自己満足に陥ることはベクトルが違っているとおもう。現在の作品が良いものであると思っていても、将来もっと素晴らしいものが作れるにちがいないと考えていれば、自己満足で成長終了することはないはずだ。