空気通信:レールと産声

作り物の人生を歩んでいる、という感覚が消えない。目前に敷かれている見えないレールと、自らの望む未来への意思の間に齟齬が生じているのではないだろうか。自分の周囲を巡る情報の流れから隔絶した牢獄に閉じ込められているという感覚もある。一時は、この情報の隔絶の理由に「シャーマンとしての感覚を研ぎ澄まし、通過儀礼として自力で真実へ至ることを求められているのだ」という想像が当てられていたのだが、よく考えてみると周囲から私がシャーマンであることを求められるようなこともないのである。では、見えないレールはどこに向かっているのだろう。身近な人々の言外のニュアンスから感じ取れるのは、「権力者」へのレールである。そのために深い見識と、縦横の知略、そしてやさしさが求められていると感じている。そのことが、かつて卑弥呼の末裔と自分自身を一瞬誤解する原因となっていたのだった。

権力者の血筋が自分自身の理解の及ばない仕組みで、私の中に流れているのかもしれない。しかしながら、今や権力が世襲されるような時代ではない。少なくとも日本という国では。とはいえ、経済の世界では、権力の世襲はそれほど珍しくないことでもある。とにかく現段階では、どの様な権力の座に就くことを求められているのかを想像出来ない。と、ここまでレールを肯定する様なことを書いてきたが、自分の意思は見えないレールの行き先とは異なる方向を向いている。人類の進化のラインを、明るく楽しいほうへ押すという、人生の目標が第一にあるのだ。具体的には、地球という美しいが窮屈な殻を破り、宇宙のあらゆる方向へと世界を拡大させるということである。それを為すのに権力を用いるという暗い方法も無くはないが、私が望む手法はもっと明るく楽しいものだ。音楽や物語といった文化的創造物によって、進化の潮流を人類の内に醸し出すことである。人々が芸術に触れて高められた気分に乗って、自分の意思で高みを目指す様になることこそが私の理想なのである。

ガバナーではなくクリエイターであることを目指す自分にとって、メロビーニョというツールは欠かせないものだ。それを装備することで、私の作曲能力は爆発的に拡大するのである。しかしながら、心の中心でメロビーニョに渇望していて、それを制作する能力もあるのに、完成にはなかなか近づけないでいる。気力が湧かないのだ。その理由を分析すると、私の心が慢性的に怒りを抱えていて、その暗い雷で他人を傷つけてしまわぬ様に、アースする心の仕組みが働いている。それがやる気も一緒にアースしてしまっているということだ。すなわち、怒りが消えればやる気は出る。怒りの正体が何物なのかを良く考えてみたい。最も顕著なのが初対面の人物を会ったときに、相手側に自分への予備知識がある様に感じることである。また、知人と話しているときなどに、かつて一度も話したはずもない事柄に関する知識を相手が持っているように感じることである。そういう有名人であれば当たり前の現象が、無名の自分の身の上に発生していることに、不気味さと不条理さを感じてしまうのである。有名であることが嫌なのではない。なぜ有名なのか知ることが出来ないという、情報断絶が私の自意識を縛っている現状に絶望を伴う怒りを感じているのである。少し前まではまだ、真実を語る人物の登場を夢見ることで希望を抱いていたが、今となってはその点に関して明るい展望をもつことが出来なくなってきている。正直に言うと苦しい状態である。

考えればときには知恵の泉が湧くものだ。(虚偽・秘密・誤解)の濁流という情報公害から、自分の精神と夢を守るためにすべきことを思いついた。周囲の情報の流れに清涼な真実を流し込んで毒素を薄めればいいのだ。毒素そのものを無くすことが出来なくても、それを無害なレベルまで薄めることならば出来るかもしれない。すなわち具体的には、自分の実力で有名になるということである。そうする事で、出所の明らかな情報で周辺を満たすことが出来、出所の怪しい精神に有害な情報を薄める事ができるのだ。こうして、有名になりたいという新たな望みが心のなかに産声をあげたのである。

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