空気通信:人類に価値はあるのか?

普通に生活していても、ときおり強烈な疎外感と、ぶつけようのない怒りと、名状しがたい恐怖が心を占めることがある。表面的には平和な日常と自由を謳歌しているはずなのだが、論理の牢獄に閉じ込められて、見せ掛けの自由しか与えられない身分をうらめしく思うことしきりである。私が現在の境遇に不満を持っているならば、はっきりと意見を述べるべきだろう。特殊な環境は他人の理解と思いやりをよせつけないものだから、表現力で理解と思いやりを引き出すしか、状況の改善された良い未来を到来せしめることは不可能だろう。

与えられない情報は、感受性と想像力を最大化して心に結んだ像を元に、考えを巡らせることで補うしかない。感受性と想像力は、私の周囲に対する情報操作の実在を捉えている。それが最大の不満の源なのだが、そのことをもっと深く考えてみたい。
私に正しい情報が与えられないことで、私は正しい判断が下せない。つまり私の自由意志は大きく制限された状態なのだ。体ではなく心と知性が拘束されているのだ。基本的人権である自由権のうちの、精神の自由が侵害されていると考えられる。たしかに、憲法では意志の奴隷的拘束は禁止されていない。だが、情報倫理としては、情報操作で他人を縛ることは善とはいえないことだろう。それは痛みをともなわず、場合によっては拘束されていることに気づきもしない可能性もあるが、実質的には不自由な状況を作り出していることに間違いはない。つまり、目に見えない暴力の一種であるともいえる。この様な暴力にさらされて、不満を感じないほうがどうかしている。現に、心に湧き上がった怒りは心身の活力を奪う原因になったし、強大な支配力にさらされている現状は恐怖するに足る状況だ。そういった心に対する負荷が、現在では精神の健康を害しつつあるし、かつては病的妄想の海にたたきこまれる原因でもあった。

同時に守られているという印象も受けている。周囲の人々の思いやりを引き出すことに成功したのかもしれないとは思う。だが、喩えて言うならば、肉になる前の家畜が狼から守られるという状況との違いも見出せない。視界の外側で、無言で守られるということでは、恐怖を消し去ることは出来ないのだ。

恐怖のうち最も大きなものとは、「真相に近づくことで、命の危険が増大する」というものだ。かつては、その考えが想起されたせいで真相から遠ざかることになった。だが、今はこう考えている。

「真実を隠蔽するために私を殺すような種族に、残りの半生をかけて奉仕すべき価値はない。」

これは、人類が超人類へ至ることの出来る価値ある存在であるかもしれないという希望と表裏一体だ。このまま、精神が拘束された状態に甘んじて生き延びても、意味のある人生にはなりそうにないのだから、自分の生命と人類の価値をかけて賭けをすることにした。全人類が私に対する欺瞞をやめ、私を情報の牢獄から開放するよう希望する。私に真実を語る人物が現れることを望む。私の個人的な情報がどのように世界に拡散したのか、私はなぜその拡散の事実に触れられなかったのか、この辺から語ってくれるとうれしい。

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