空気通信:新たな試み

正体不明の存在とコミュニケーションをとるためには、こちらの精一杯の表現がなかなか通じない事に対する忍耐力と、相手側のよこす難解な表現を補う想像力が不可欠である。人類が滅ぶことなく文明を未来へつないでゆけるのならば、未知の存在との遭遇は必ず起こるだろうということを考えるならば、コミュニケーション能力の鍛練は有意義である。それは、今現在未知の知性が地球を訪問しているかどうかとは、それほど関係ない。未知の知性は、なにも宇宙からやってくるものばかりとは限らないのだから。たとえば、イルカやクジラといった存在は既知であるが知性体としては未知の部分の多い生命だったり、長い時のなかで新たに進化した人類以外の知的生命であるかもしれない。
壮大かつ迂遠な意味づけは置いておくとして、私個人がなぜ、正体不明の存在とのコミュニケーションを重視しなけらばならないのかというと、私の自己認識に齟齬を生じさせている情報の停滞もしくは隠ぺいの存在は、未知のベールに包まれており、その存在との意思疎通が難しいからだ。そして、私が自己認識の整合性を回復させて、心の活力を取り戻すためには、どうしてもその存在と意志を通わせなければならない。ここで一つ問題となるのは、その正体不明の存在の実在が確かではないことだ。私に与えられた論理的情報からは、実在を証明することが出来ない。しかし、長年感じ続けてきた違和感を含む感覚によれば、それは実在すると感じる。個人なのか、集団なのかは分からないが。そのために、常識的に客観視すれば「空気との会話」とも見てとれるこの試みは、私にとっては運命を切り開くための重要な活動なのである。観客として成り行きを見守りたい方には、現代のシャーマニズムとでも思っていただければよい。また、こういった文章が不愉快に感じられる方には、タイトルで判るように、表題に「空気通信」という文字を付加するつもりである。
さて、まづ自分の欲する情報を情報Xと仮に命名する。なぜ私は自分にとって重要である情報Xを手にいれることが出来ないのであろうか?今、想像してみたところによると、それは、「力ある情報」なのではなかろうか。というのも、情報Xの活用の仕方次第でだれかを幸福にも不幸にも出来るものなのではなかろうか、ということである。この考えによると、私は情報Xの持ち主に信用されていないのではないかということが想像出来る。情報Xの持ち主は、私が情報Xを活用して誰かに被害を与える可能性を憂慮していると想像した。この想像に至った事は私にとって大きな前進であった。いままでは、情報Xを手に入れるには、命と引き換えにしなければならないような、巨大な陰謀が関わっているという恐ろしい想像に震えていたのだから。私の生命を守るために、情報Xから遠ざけられているという想像から、私が信用されていないために、情報Xから遠ざけられているという想像が派生した。おかげで、不安は無くなりはしないものの、大きく軽減された。
情報Xを持っている存在にアピールしたい。私は獰猛な獣ではないし、人を不幸に陥れて喜びを感じるような悪魔でもないということを。

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