月路閉店

 母が隠居するよう、じわじわと説得してきたのが、この前やっと「月路」を閉店する準備を許可してもらった。いつもは、「章が私を食わせていけないから、店をやめられない」と怒られるところだが、今回は運よく一歩前に進むことができた。それだけ、母の足の具合が悪くなってきているということでもあるかもしれない。ここしばらく、店に出るとき以外は、家に閉じこもり海外ドラマと時代劇を視聴する事を楽しみに生きている様だ。自家用車を廃車してから、自分から思い立って出かけるということが殆どなくなっているのだ。母は車の運転が大好きで、独りで仙台や横浜などによく出かけていた事を思い出す。私より運転が上手なのだ。
人間不信が肥大し、見えない敵と戦い続けている私にとって、母を食べさせるほどの収入を得ることが、現状では難しいという現実がある。この点は、完成率55%程度に達した「メロビーニョ」を完成させ、それのVEGTORでの販売に今後の人生を賭けるという覚悟をした。これは自画自賛ではあるが、音楽的イノベーションをもたらすツールであると自負している。メロビーニョによって作曲という行為を演奏能力という枷から開放する意義は、大きいはずだ。この、作曲という創造活動を、今までよりももっと生活に浸透させることが出来るはずなのだ。趣味として写真や詩に凝るように自然に曲を作る生活は、豊かなものだ。PCのある家庭ならば、僅か2千円でその作曲ツールの完全版が手に入り、機能限定版ならば無料で使用できる。そういったツールをネットで販売することを、仕事にする。ネットの利用出来る場所なら、日本中どこでも仕事が出来ることになる。ならば、出来るだけ物価の安いところで生活する方がよい。特に、自動車の維持費の大部分を構成する駐車場代の安いところが、今後の生活の拠点としてふさわしい。月路を貸して、その収入で生活する事になるのだ。
いまのところ、福岡県が最大候補地である。物価が安く、文化的であり、親戚や母の友人から近い。とはいえ、まだ決定打となる情報は無い。皆さんの地元や故郷で住みやすいところがあれば推薦していただけると、参考に出来て助かります。

小さな退廃と反省

ここしばらくはゲームにはまり、作品制作に手がつかなかった。そうして、自堕落な生活を続けているうちに、なぜか膝がいたくなった。数年前から膝を痛めていたのだが、ここ数日で目に見えて悪化した。整形外科でレントゲンを撮ってもらうと、膝に少し水がたまっているとのこと。まずい、非常にまずい。この流れは、歩くことに億劫になり、そのせいで運動不足になり、体重が増加してさらに膝への負担が増す。という、負のスパイラルに入ってしまっている。現状から垣間見える歩行能力の喪失という結末に恐怖した。どうなるか判らないが、まだ立て直せる可能性はある。そう思い昨日はプールに行った。少し泳いでみたが、バタ足もカエル足も出来ない状況では水泳は無理。水中歩行に切り替えて無理にならない程度に運動した。血行を良くすることで、膝に溜まった水をちらすことを期待しているのだ。そうこうしているうちに、次なる困難が顕在化した。微熱と咳が1ヶ月近く続いていることだ。これは先日、せきが気になりだしてから大体2週間目の日に病院に行ったのだが、このときは咳止めと風邪薬を処方してもらった。この段階では、風邪対策の処置に納得していた。しかし現状は、カビの胞子などの微粒子が原因のアレルギー性肺炎などがありうるし、最悪の場合は多剤耐性結核の可能性もあり再び恐怖が心をよぎる。今日はかかりつけの病院が休みだったので、金曜日に改めて受診するつもり。微粒子対策に、空気清浄機を購入した。打つべき手は打った、あとは祈るしかない。

画風調整の旅

最近時間が少し出来たので、絵の練習を再開しようかと思う。で、現在は不安定な画風を調整するためにお手本を探している。自分自身を萌えさせる絵を描けることがゴールである。ところで、自分はどんな画風に萌えていたのか思い起こすと、土器手司のダーティペアといのまたむつみの幻夢戦記レダあたりが思い出される。お手本の画集を物色するが、電子書籍ではまったくなかった。土器手司のほうは画集そのものが紙のものでもまったくない(Amazonでは)。場所を取ることを覚悟していのまたむつみの画集を買うことにした。

虚偽について

嘘をつかないで生きてゆけるなら、それは幸せな人生になるだろう。嘘が発覚する恐怖から無縁でいられるからだ。しかし、この基本的原理が、こと大人の世界では意外と知られていない。というより忘れられている。大人になるにつれ「嘘も方便」という御題目のもと、自分の弱さを嘘をつくことで補強したり、人間関係を円滑にするために軽い嘘をつくようなことが増えて行く。そして、嘘をつく経験値が貯まるにつれ、嘘の副作用を回避するテクニックも身に付けてゆく。このテクニックに自信をつけることで、嘘が情報の暗黒面であり、活用方法を誤れば自他を不幸にする危険なものだという意識も薄れてゆくのだ。こういった仕組みが、人々から嘘に対する危機意識を奪ってゆく。その結果、社会には虚偽が蔓延することになる。欺瞞に満ちた社会というのは、個々人同士の有機的連携を虚偽が阻害してしまう非効率性を内包していて、幸福な社会からは程遠いものだ。とはいえ、政治と経済の世界では、洗練を重ねてきた法律によって、権力の行使と取引の過程で欺瞞を排除することが求められる様になった。また、学問の世界でも虚偽を排除すべく日々知識が更新されてゆく。結局、今現在欺瞞が許されているのは、個々人のプライバシーに関る事柄や、法律の網の及ばない細かい情報なのである。それでも、虚偽に苦しめられる被害者がいなくなったわけではない。欺瞞によって歪められた情報が意思決定の自由を奪うことになるし、虚偽の含まれた情報に触れる事は、たとえ何処がどう嘘なのかが分からなくても気持ちが悪いものだ。

とにかく、出来るだけ多くの人に正直に生きることの大切さを知って欲しいと思う。かくいう私もまだ嘘からの卒業を果たしてはいないが、少しでも嘘を減らしてゆくという事ぐらいは出来るのだ。

空気通信・最終回:心の迷宮の出口にて

 誰かに恨まれているかもしれない、という意識が、不運に出会った時に心の中で毒に変わる。この毒によって「何者かの復讐ではないか」という幻想の恐怖が生まれ、不確定情報や情報断絶にあったときに化学反応をしてどんどん大きくなっていった。私は抽象思考の暗黒面にはまっていたのだ。対話を通して真実を知る事を怠り、安易な見当職をその代わりに充てた。これが全ての過ちであったのだ。家族や友人は何者かに篭絡され操られていたのではなく、私を心の迷宮の外に導くべく誘導の声を発してくれていたのだった。信じきれなかった私の弱さを許してほしい。

見守ってくれていたクリッキーにはあやまりたい。この前は怒鳴ってしまってごめん。

迷宮を脱出して視界が広くなったら、自分の内面の醜さが見えてきた。一見美しい非暴力不服従の殻で、内面の攻撃的・他罰的コアを隠していたのだ。
そのために、無意識のうちに他者を攻撃してしまっていた。私の平和主義は見せかけだけのものだった。今は反省と内省が必要な状態だ。皆様、気づかせてくれてありがとう。本当の情報断絶は私自身の中にあった。

空気通信:恐怖の大王の弱点

私が最も恐れている「謎の支配者」とは、実は幻想なのではないか?支配を受けているのは事実だろうが、それは相手側にも恐怖があるために怖い相手を支配をせずにはいられないからだろう。お互いが情報断絶の闇に、己が最も恐れているものの影を投影してしまっていて、ためらいながらも戦いを挑んでいる。これこそ「恐怖の大王」の正体だろう。それは、特定の人物などではなく、人と人の間や国と国の間に発生した情報断絶に浮かび上がる自然現象のようなもの「幻想の恐怖」なのだ。恐怖の大王を倒すには、どの様な武器も知略も用をなさない。最も恐れている存在の影から襲い来る恐怖に耐え、闇の先にある同胞との対話を開始する勇気こそが必要なのだ。そして、コミュニケーションによって情報断絶を打ち消すことで、恐怖の大王を消滅させることが出来るのだ。これが、我々の前に立ちはだかるラスボスを倒す唯一の方策である。

この事を悟っても、恐怖は消えていない。心の内側が変化して、大切な事に気づきはした。しかし、現実の状況を変えることが出来るのかどうか不安でしかたがない。全てが私の妄想でしかないかもしれないという、恐ろしいイメージが襲ってくる。とにかく、目前の情報断絶の先に送るメッセージを紡がなければならない。受け取る者の恐怖を軽減するようなメッセージを。メッセージは以下の2つだ。

「私はここに宣言する。情報牢獄に関った全ての関係者の法的責任を問わないことを。」

「そのかわり、私を情報牢獄から解放してほしい。そうすれば私は苦しみを忘れられ、お互いに全てを笑い話に変換できるだろう。」

この想いよ届け!

空気通信:さらば幻想の恐怖

現状についての推測がある程度形をなした後も、恐怖が無くなったわけではない。あらゆる可能性が残っていて、恐ろしいものも消えていないのだ。しかしここで、天啓が降りた。

「見えない敵と戦っているのは私だけではない」

人々もまた情報断絶の反対側で幻想の恐怖と戦っていたのだ!

この天啓によって恐怖が薄らいだ。そうする事で視野がさらにひらけた。情報断絶を埋めるための思考を進める。今まで、あまりにも恐ろしいために思考から排除していた可能性がある。それは、私が日本の天皇家か、もしくは沖縄の琉球王家の血を引いているという可能性である。小心な小市民である私には、宮廷闘争など恐ろしくてしかたがない。中国の古典を読むことによって、宮廷闘争の恐ろしさが骨身にしみているのだ。そして、現在の環境として家族と友人が謎の存在に篭絡されているという状況である。古代中国であれば、墓に片足を突っ込んでいるようなものだ。もしも、この可能性が現実のものならば、私が論理の牢獄に閉じ込められている理由を理解することが出来る。それは、クーデターに対する恐怖である。私にしてみれば、ばかばかしい事である。私は日本という国が好きだ。隆盛を迎えた文化は、この国が平和国家であり、国民が自由を謳歌していることを表している。倒すべき悪などでは有り得ない。

私はこの国の革命を企図しているのではない。私を長年悩ませてきたものは以下のようなものだ。

「自らの身を守るために暴力と謀略にたよりすぎ、対話と協調をおろそかにしている人類の現在の有り様こそ革新すべき悪なのだ」

そして、幻想の恐怖と正対することで悟った。

「個人間、国家間の幻想の恐怖を乗り越える事こそ、平和へ至る本当の道なのだ」

クリッキー!これでいいかい?

空気通信:死の恐怖

病院で先生に受けたアドバイスに従い、摂取する薬の量をふやした。そうする事で、ここ数日暴れまわっていた「死の恐怖」がやわらいだ。そして、恐怖によって起こっていた視野狭窄から開放されたためか、状況判断に変化が現れた。腐敗しているのは日本政府ではなく、日本のマスメディアなのだと。これは、以前から薄々考えていたことだが、家族や友人を支配する力が強大すぎることから、有力視してこなかった。しかし、実際は国家権力以外の方法で人を自由に動かす方策があるのだろう。例えば弱みを握るなどだ。

死の恐怖から逃れるために死を選ぶという、矛盾した行動を人間がとることがある。最終的に、私にそういった矛盾した行動をとらせ、このコミカルな死を笑い飛ばそうという意図を感じる。笑いのために人間の絶望や死まで利用するという、品性の下劣さ邪悪さを思うと吐き気がする。たとえ、自殺を選択しなかったとしても、強く身に迫る恐怖、とくに「死の恐怖」を抱えることで性的に堕落するよう仕向けているのだ。遺伝子のしくみによって、死の恐怖を感じる事が性欲の増大をもたらすものなのだ。下劣であるその者と同レベルまで、私を堕落させようとしているのではなかろうか。なぜそうなのか分からないが、品性の優劣が戦いの趨勢に影響するという感覚がある。いままで私に決定打を与えられず、間接的で陰険な支配の手を伸ばすにとどめていた理由が、そこにあるのかもしれない。自分が童貞である事に今は感謝している。

一般の人々には、私の感じている恐怖がどの様なものなのか理解出来ないだろう。恐怖とは、それを感じている人間の姿を見ることでは伝わらないのだ。状況を理解して初めて思いやることのできる類の感情なのだ。どうということのない環境に見えるなか、どれだけ恐怖の言葉を発しても、「大げさなことだ」と考えられ問題視されない。それどころか、当人の苦痛に比例して見かけが滑稽になるのである。そのことを、けれん味あふれる人物に利用されたのだろう。これが、情報断絶のしくみの一部である。

外からは分からない恐怖について説明する。まず、私に関する情報が人々の中に伝わっていること。これは「サトラレ」や「トゥルーマンショー」になった気分をもたらす。自分の情報が意図せず他人に伝わってしまうことは苦痛であり、その理由が分からないことは恐怖となる(そして恐怖だけは他人に伝わらない)。次に、家族や友人全てが何者かに篭絡され(もしくは入れ替わり)私を操作する様な言動をしはじめる。これは「ボディ・スナッチャー」などのホラー映画で擬似体験できる。こういった現象を現実に体験する事は映画など足元にも及ばない恐怖なのだ。最後に、私がミュータントである事。支配しきれない実験動物として始末されるというヴィジョンが想起される。

私をこの情報牢獄から脱出させる手助けをしてほしい、そのためにはたった2つの情報があればいい。
・どの様にして、私に関する情報が人々の間に拡散したのか
・その事実がなぜ、私に知らされなかったのか

ネットが抑圧のためのツールなのか、解放のためのツールなのか、真価が問われている。これを見た人で、上記の情報をご存知の方がいたら、私に知らせて欲しい。

空気通信:酷吏非難

通りすがりの一見の人々と視線が合ったときにまれに現れる「犯罪者を見る様な表情」について、ゆるがせにすべきでないという印象を受けた。これは私を情報牢獄に閉じ込め続けている現状のヒントではないだろうかと感じる。犯罪捜査は人間を拘束する理由として正当なものだ。しかし、十年を超える論理的拘束と、それに伴う人権侵害を続けている事を許す理由にはならない。まさかと思うが、ミュータントには人権は無いとでもいうのだろうか?

犯罪について考えてみる。もしも私がなんらかの重犯罪の犯人だったとしたら、人類の未来などという遠大な物事に想いをはせる心の余裕はないはずだ。証拠を隠蔽し身を隠すことに日々忙殺されるだろうからだ。だというのに人々ときたら「こんな人がもし犯人だったとしたら、とても恐ろしい」という、犯罪者のイメージと私の印象のギャップによるインパクトのある恐怖に目をくらまされて、私に私の人生を蝕むほど巨大な濡れ衣を着せていることへの恐怖は見えなくなっているのだ。何者に煽動されているのかは分からないが、まんまと乗せられているのだ。と思考と想像力が私に告げている。

私を閉じ込め苦しめている巨大な力とは、国家権力であると考えるのが最も自然である。一般的日本人は余程のことが無い限り国家権力には逆らわないものなのだ。それはともかく、私という一人の国民を長期にわたって虐げ、欺瞞による陰険な支配を続ける様な酷吏に、強大な権力を与えた国家の責任は決して軽くは無い。目を覚まして反省して欲しい。と思考と想像力が私に告げている。

こういった私の想像が事実であるなら、速やかに正規の手続きをふんで私にかかる嫌疑の罪状を告げ、真相究明のための事情聴取を開始すべきだ。そして、私の人生を長年蝕んできた事に対する弁明と謝罪があれば尚良い。本人がそれと気づいているのに泳がせ続ける意味はない。陰湿な精神的リンチを続けるという意味以外には。

幸せな国家を目指しているのならば、国民を騙すことなどあってはならない事だ。欺瞞に満ちた国家というのはディストピアに共通する特徴である。

空気通信:切なる願い

私はC++という言語が好きだ。C++でメロビーニョを作るという事は、本来楽しいひとときであるはずだが、今は苦しい。それというのも「謎の支配者」に宝を奪われる可能性がちらつく中で、宝を創り出すべく努力をするのが虚しいのだ。私の家族や友人を不完全ながらもある程度自由に動かせる力をもった者から、宝を守りきる自信が全く無いのである。作品制作への気力を減退させている原因は、怒りや憎しみを抑制する心の仕組みだけでは無いことに気づいた。奪われることへの恐れである。かくして他者に不本意な支配を受けている状態にあると、クリエイティブな能力は著しく低下することに気づく。自由こそが創造力の源なのだということと、安心こそが建設的行為の原動力だということを、両方失ってやっと気づいたのだ。

「被害妄想ではないか?」と常識が現状認識を否定しようとするが、確信は揺ぎ無いままだ。私の見当職は、身近な人々の行動のアクセントと、発言に伴う感情のゆらぎの中に、隠された支配者の影を見出すのである。謎の支配者は私の生活する環境をコントロールし、アメとムチによって私を家畜のように操作しようとしているのだと感じる。正体不明の人物に、回りくどい方法で支配されているという現状は不愉快なものだ。この様な状況にあっては、気持ちよく生活する事など出来ない。鬱々とした日々を送っている。

具体的にはどの様な支配を受け、どう不利益を被っているのか明文化出来ない限り、法による保護は期待出来ない。支配されている状態を、自力で解決出来ない無力感が、私の人生を蝕んでいる。しかしながら、解決して欲しい不満があるのなら、きちんと意思表示しなければ、物事をよりよくするための方向づけは不可能となる。したがって、私はここに私の意志を表示する。

「私を支配しようと望んでいる人物が正体を現し、コミュニケーションをとることでお互いの信頼を構築し、一方的な支配ではなく協調によって望みを実現に導くよう方針を転換する事を切に願っている」と。

怒りにまかせて拳を振り上げ、罪の無い人々を傷つけるよりは、無力をかみしめながら発言する方がましなのだと信じている。