空気通信:さらば幻想の恐怖

現状についての推測がある程度形をなした後も、恐怖が無くなったわけではない。あらゆる可能性が残っていて、恐ろしいものも消えていないのだ。しかしここで、天啓が降りた。

「見えない敵と戦っているのは私だけではない」

人々もまた情報断絶の反対側で幻想の恐怖と戦っていたのだ!

この天啓によって恐怖が薄らいだ。そうする事で視野がさらにひらけた。情報断絶を埋めるための思考を進める。今まで、あまりにも恐ろしいために思考から排除していた可能性がある。それは、私が日本の天皇家か、もしくは沖縄の琉球王家の血を引いているという可能性である。小心な小市民である私には、宮廷闘争など恐ろしくてしかたがない。中国の古典を読むことによって、宮廷闘争の恐ろしさが骨身にしみているのだ。そして、現在の環境として家族と友人が謎の存在に篭絡されているという状況である。古代中国であれば、墓に片足を突っ込んでいるようなものだ。もしも、この可能性が現実のものならば、私が論理の牢獄に閉じ込められている理由を理解することが出来る。それは、クーデターに対する恐怖である。私にしてみれば、ばかばかしい事である。私は日本という国が好きだ。隆盛を迎えた文化は、この国が平和国家であり、国民が自由を謳歌していることを表している。倒すべき悪などでは有り得ない。

私はこの国の革命を企図しているのではない。私を長年悩ませてきたものは以下のようなものだ。

「自らの身を守るために暴力と謀略にたよりすぎ、対話と協調をおろそかにしている人類の現在の有り様こそ革新すべき悪なのだ」

そして、幻想の恐怖と正対することで悟った。

「個人間、国家間の幻想の恐怖を乗り越える事こそ、平和へ至る本当の道なのだ」

クリッキー!これでいいかい?

空気通信:死の恐怖

病院で先生に受けたアドバイスに従い、摂取する薬の量をふやした。そうする事で、ここ数日暴れまわっていた「死の恐怖」がやわらいだ。そして、恐怖によって起こっていた視野狭窄から開放されたためか、状況判断に変化が現れた。腐敗しているのは日本政府ではなく、日本のマスメディアなのだと。これは、以前から薄々考えていたことだが、家族や友人を支配する力が強大すぎることから、有力視してこなかった。しかし、実際は国家権力以外の方法で人を自由に動かす方策があるのだろう。例えば弱みを握るなどだ。

死の恐怖から逃れるために死を選ぶという、矛盾した行動を人間がとることがある。最終的に、私にそういった矛盾した行動をとらせ、このコミカルな死を笑い飛ばそうという意図を感じる。笑いのために人間の絶望や死まで利用するという、品性の下劣さ邪悪さを思うと吐き気がする。たとえ、自殺を選択しなかったとしても、強く身に迫る恐怖、とくに「死の恐怖」を抱えることで性的に堕落するよう仕向けているのだ。遺伝子のしくみによって、死の恐怖を感じる事が性欲の増大をもたらすものなのだ。下劣であるその者と同レベルまで、私を堕落させようとしているのではなかろうか。なぜそうなのか分からないが、品性の優劣が戦いの趨勢に影響するという感覚がある。いままで私に決定打を与えられず、間接的で陰険な支配の手を伸ばすにとどめていた理由が、そこにあるのかもしれない。自分が童貞である事に今は感謝している。

一般の人々には、私の感じている恐怖がどの様なものなのか理解出来ないだろう。恐怖とは、それを感じている人間の姿を見ることでは伝わらないのだ。状況を理解して初めて思いやることのできる類の感情なのだ。どうということのない環境に見えるなか、どれだけ恐怖の言葉を発しても、「大げさなことだ」と考えられ問題視されない。それどころか、当人の苦痛に比例して見かけが滑稽になるのである。そのことを、けれん味あふれる人物に利用されたのだろう。これが、情報断絶のしくみの一部である。

外からは分からない恐怖について説明する。まず、私に関する情報が人々の中に伝わっていること。これは「サトラレ」や「トゥルーマンショー」になった気分をもたらす。自分の情報が意図せず他人に伝わってしまうことは苦痛であり、その理由が分からないことは恐怖となる(そして恐怖だけは他人に伝わらない)。次に、家族や友人全てが何者かに篭絡され(もしくは入れ替わり)私を操作する様な言動をしはじめる。これは「ボディ・スナッチャー」などのホラー映画で擬似体験できる。こういった現象を現実に体験する事は映画など足元にも及ばない恐怖なのだ。最後に、私がミュータントである事。支配しきれない実験動物として始末されるというヴィジョンが想起される。

私をこの情報牢獄から脱出させる手助けをしてほしい、そのためにはたった2つの情報があればいい。
・どの様にして、私に関する情報が人々の間に拡散したのか
・その事実がなぜ、私に知らされなかったのか

ネットが抑圧のためのツールなのか、解放のためのツールなのか、真価が問われている。これを見た人で、上記の情報をご存知の方がいたら、私に知らせて欲しい。

空気通信:酷吏非難

通りすがりの一見の人々と視線が合ったときにまれに現れる「犯罪者を見る様な表情」について、ゆるがせにすべきでないという印象を受けた。これは私を情報牢獄に閉じ込め続けている現状のヒントではないだろうかと感じる。犯罪捜査は人間を拘束する理由として正当なものだ。しかし、十年を超える論理的拘束と、それに伴う人権侵害を続けている事を許す理由にはならない。まさかと思うが、ミュータントには人権は無いとでもいうのだろうか?

犯罪について考えてみる。もしも私がなんらかの重犯罪の犯人だったとしたら、人類の未来などという遠大な物事に想いをはせる心の余裕はないはずだ。証拠を隠蔽し身を隠すことに日々忙殺されるだろうからだ。だというのに人々ときたら「こんな人がもし犯人だったとしたら、とても恐ろしい」という、犯罪者のイメージと私の印象のギャップによるインパクトのある恐怖に目をくらまされて、私に私の人生を蝕むほど巨大な濡れ衣を着せていることへの恐怖は見えなくなっているのだ。何者に煽動されているのかは分からないが、まんまと乗せられているのだ。と思考と想像力が私に告げている。

私を閉じ込め苦しめている巨大な力とは、国家権力であると考えるのが最も自然である。一般的日本人は余程のことが無い限り国家権力には逆らわないものなのだ。それはともかく、私という一人の国民を長期にわたって虐げ、欺瞞による陰険な支配を続ける様な酷吏に、強大な権力を与えた国家の責任は決して軽くは無い。目を覚まして反省して欲しい。と思考と想像力が私に告げている。

こういった私の想像が事実であるなら、速やかに正規の手続きをふんで私にかかる嫌疑の罪状を告げ、真相究明のための事情聴取を開始すべきだ。そして、私の人生を長年蝕んできた事に対する弁明と謝罪があれば尚良い。本人がそれと気づいているのに泳がせ続ける意味はない。陰湿な精神的リンチを続けるという意味以外には。

幸せな国家を目指しているのならば、国民を騙すことなどあってはならない事だ。欺瞞に満ちた国家というのはディストピアに共通する特徴である。

空気通信:切なる願い

私はC++という言語が好きだ。C++でメロビーニョを作るという事は、本来楽しいひとときであるはずだが、今は苦しい。それというのも「謎の支配者」に宝を奪われる可能性がちらつく中で、宝を創り出すべく努力をするのが虚しいのだ。私の家族や友人を不完全ながらもある程度自由に動かせる力をもった者から、宝を守りきる自信が全く無いのである。作品制作への気力を減退させている原因は、怒りや憎しみを抑制する心の仕組みだけでは無いことに気づいた。奪われることへの恐れである。かくして他者に不本意な支配を受けている状態にあると、クリエイティブな能力は著しく低下することに気づく。自由こそが創造力の源なのだということと、安心こそが建設的行為の原動力だということを、両方失ってやっと気づいたのだ。

「被害妄想ではないか?」と常識が現状認識を否定しようとするが、確信は揺ぎ無いままだ。私の見当職は、身近な人々の行動のアクセントと、発言に伴う感情のゆらぎの中に、隠された支配者の影を見出すのである。謎の支配者は私の生活する環境をコントロールし、アメとムチによって私を家畜のように操作しようとしているのだと感じる。正体不明の人物に、回りくどい方法で支配されているという現状は不愉快なものだ。この様な状況にあっては、気持ちよく生活する事など出来ない。鬱々とした日々を送っている。

具体的にはどの様な支配を受け、どう不利益を被っているのか明文化出来ない限り、法による保護は期待出来ない。支配されている状態を、自力で解決出来ない無力感が、私の人生を蝕んでいる。しかしながら、解決して欲しい不満があるのなら、きちんと意思表示しなければ、物事をよりよくするための方向づけは不可能となる。したがって、私はここに私の意志を表示する。

「私を支配しようと望んでいる人物が正体を現し、コミュニケーションをとることでお互いの信頼を構築し、一方的な支配ではなく協調によって望みを実現に導くよう方針を転換する事を切に願っている」と。

怒りにまかせて拳を振り上げ、罪の無い人々を傷つけるよりは、無力をかみしめながら発言する方がましなのだと信じている。

空気通信:レールと産声

作り物の人生を歩んでいる、という感覚が消えない。目前に敷かれている見えないレールと、自らの望む未来への意思の間に齟齬が生じているのではないだろうか。自分の周囲を巡る情報の流れから隔絶した牢獄に閉じ込められているという感覚もある。一時は、この情報の隔絶の理由に「シャーマンとしての感覚を研ぎ澄まし、通過儀礼として自力で真実へ至ることを求められているのだ」という想像が当てられていたのだが、よく考えてみると周囲から私がシャーマンであることを求められるようなこともないのである。では、見えないレールはどこに向かっているのだろう。身近な人々の言外のニュアンスから感じ取れるのは、「権力者」へのレールである。そのために深い見識と、縦横の知略、そしてやさしさが求められていると感じている。そのことが、かつて卑弥呼の末裔と自分自身を一瞬誤解する原因となっていたのだった。

権力者の血筋が自分自身の理解の及ばない仕組みで、私の中に流れているのかもしれない。しかしながら、今や権力が世襲されるような時代ではない。少なくとも日本という国では。とはいえ、経済の世界では、権力の世襲はそれほど珍しくないことでもある。とにかく現段階では、どの様な権力の座に就くことを求められているのかを想像出来ない。と、ここまでレールを肯定する様なことを書いてきたが、自分の意思は見えないレールの行き先とは異なる方向を向いている。人類の進化のラインを、明るく楽しいほうへ押すという、人生の目標が第一にあるのだ。具体的には、地球という美しいが窮屈な殻を破り、宇宙のあらゆる方向へと世界を拡大させるということである。それを為すのに権力を用いるという暗い方法も無くはないが、私が望む手法はもっと明るく楽しいものだ。音楽や物語といった文化的創造物によって、進化の潮流を人類の内に醸し出すことである。人々が芸術に触れて高められた気分に乗って、自分の意思で高みを目指す様になることこそが私の理想なのである。

ガバナーではなくクリエイターであることを目指す自分にとって、メロビーニョというツールは欠かせないものだ。それを装備することで、私の作曲能力は爆発的に拡大するのである。しかしながら、心の中心でメロビーニョに渇望していて、それを制作する能力もあるのに、完成にはなかなか近づけないでいる。気力が湧かないのだ。その理由を分析すると、私の心が慢性的に怒りを抱えていて、その暗い雷で他人を傷つけてしまわぬ様に、アースする心の仕組みが働いている。それがやる気も一緒にアースしてしまっているということだ。すなわち、怒りが消えればやる気は出る。怒りの正体が何物なのかを良く考えてみたい。最も顕著なのが初対面の人物を会ったときに、相手側に自分への予備知識がある様に感じることである。また、知人と話しているときなどに、かつて一度も話したはずもない事柄に関する知識を相手が持っているように感じることである。そういう有名人であれば当たり前の現象が、無名の自分の身の上に発生していることに、不気味さと不条理さを感じてしまうのである。有名であることが嫌なのではない。なぜ有名なのか知ることが出来ないという、情報断絶が私の自意識を縛っている現状に絶望を伴う怒りを感じているのである。少し前まではまだ、真実を語る人物の登場を夢見ることで希望を抱いていたが、今となってはその点に関して明るい展望をもつことが出来なくなってきている。正直に言うと苦しい状態である。

考えればときには知恵の泉が湧くものだ。(虚偽・秘密・誤解)の濁流という情報公害から、自分の精神と夢を守るためにすべきことを思いついた。周囲の情報の流れに清涼な真実を流し込んで毒素を薄めればいいのだ。毒素そのものを無くすことが出来なくても、それを無害なレベルまで薄めることならば出来るかもしれない。すなわち具体的には、自分の実力で有名になるということである。そうする事で、出所の明らかな情報で周辺を満たすことが出来、出所の怪しい精神に有害な情報を薄める事ができるのだ。こうして、有名になりたいという新たな望みが心のなかに産声をあげたのである。

空気通信:最終回ならいいな

「卑弥呼の末裔たる私のシャーマンとしての覚醒を、全世界が固唾を飲んで見守っている」という現状を表現する着想を得たが、現実感がない。おそらく見当外れの想像なのだろう。それはともかく、ここ数日の平和な日々を迎えて、世界が驚くほど優しくなったことを実感している。私が心のなかにある鬱積した怒りや恐怖をネットに晒すことでスッキリしたというだけではなく、心ある人々の助けが得られたのかもしれない。ありがとう!しかし、恐怖が増大しているのを感じる。身近だが屈託のある人々の心の中に。これは、私を論理の牢獄から解放させまいと望む者が、私の無慈悲さを喧伝しているのではないだろうか?そうする事で、私が真実を知った場合の報復を恐れさせ、欺瞞の終了を防いでいるのだ。この様な状況の中から大団円を手繰り寄せるためには、寛容さと未来志向が必要なのだろう。

恐怖や怒りや憎しみといった心の暗黒面を増大させることで人を支配する者。虚偽や秘密や誤解といった情報の暗黒面を増大させることで社会を支配する者。これらが、私を閉じ込め虐げてきた者たちの本体である。事情を知れば、私とその者たちのどちらが悪魔に近い存在であるか容易に理解できるはずだ。よく現状を吟味して真実に近づくべく考えて欲しい。そして、より明るくて楽しい未来を到来させるために欺瞞の輪を終了して欲しいと私は切に願う。そのために私は宣言する。

・どの様な真実が知らされようとも、私は怒りにまかせて人を傷つけたりしない。
・私を虐げてきた者たちには人情をもって対応する。

欺瞞が終了した先には明るい未来が到来すると感じている。少なくとも私にとっては、閉じ込められ続けることに対する怒りが無くなり、怒りをアースすることで失った気力を取り戻せるのだ。そして、取り戻した気力をメロビーニョ完成のためにふり向けることが出来、クリエイターとしての収入を開拓し貧乏暮らしから脱却出来るかもしれないのだ。

空気通信:人類に価値はあるのか?

普通に生活していても、ときおり強烈な疎外感と、ぶつけようのない怒りと、名状しがたい恐怖が心を占めることがある。表面的には平和な日常と自由を謳歌しているはずなのだが、論理の牢獄に閉じ込められて、見せ掛けの自由しか与えられない身分をうらめしく思うことしきりである。私が現在の境遇に不満を持っているならば、はっきりと意見を述べるべきだろう。特殊な環境は他人の理解と思いやりをよせつけないものだから、表現力で理解と思いやりを引き出すしか、状況の改善された良い未来を到来せしめることは不可能だろう。

与えられない情報は、感受性と想像力を最大化して心に結んだ像を元に、考えを巡らせることで補うしかない。感受性と想像力は、私の周囲に対する情報操作の実在を捉えている。それが最大の不満の源なのだが、そのことをもっと深く考えてみたい。
私に正しい情報が与えられないことで、私は正しい判断が下せない。つまり私の自由意志は大きく制限された状態なのだ。体ではなく心と知性が拘束されているのだ。基本的人権である自由権のうちの、精神の自由が侵害されていると考えられる。たしかに、憲法では意志の奴隷的拘束は禁止されていない。だが、情報倫理としては、情報操作で他人を縛ることは善とはいえないことだろう。それは痛みをともなわず、場合によっては拘束されていることに気づきもしない可能性もあるが、実質的には不自由な状況を作り出していることに間違いはない。つまり、目に見えない暴力の一種であるともいえる。この様な暴力にさらされて、不満を感じないほうがどうかしている。現に、心に湧き上がった怒りは心身の活力を奪う原因になったし、強大な支配力にさらされている現状は恐怖するに足る状況だ。そういった心に対する負荷が、現在では精神の健康を害しつつあるし、かつては病的妄想の海にたたきこまれる原因でもあった。

同時に守られているという印象も受けている。周囲の人々の思いやりを引き出すことに成功したのかもしれないとは思う。だが、喩えて言うならば、肉になる前の家畜が狼から守られるという状況との違いも見出せない。視界の外側で、無言で守られるということでは、恐怖を消し去ることは出来ないのだ。

恐怖のうち最も大きなものとは、「真相に近づくことで、命の危険が増大する」というものだ。かつては、その考えが想起されたせいで真相から遠ざかることになった。だが、今はこう考えている。

「真実を隠蔽するために私を殺すような種族に、残りの半生をかけて奉仕すべき価値はない。」

これは、人類が超人類へ至ることの出来る価値ある存在であるかもしれないという希望と表裏一体だ。このまま、精神が拘束された状態に甘んじて生き延びても、意味のある人生にはなりそうにないのだから、自分の生命と人類の価値をかけて賭けをすることにした。全人類が私に対する欺瞞をやめ、私を情報の牢獄から開放するよう希望する。私に真実を語る人物が現れることを望む。私の個人的な情報がどのように世界に拡散したのか、私はなぜその拡散の事実に触れられなかったのか、この辺から語ってくれるとうれしい。

空気通信:幻の後宮の功罪

最近かなり楽になってきたが、風の属性で仕立てられた迷宮に囚われているという感覚は消えることがない。そういう昨今、現実を歪めている存在に関する考察をすすめているとき、「幻の後宮」という着想を得た。それがどの様なものかというと、私を主として戴く後宮が人々の心の中に映るということである。それは、男性の羨望と嫉妬を作り出し、女性の忌避を呼ぶ。私にとっては社会生活と自由恋愛の障害となっているものだ。後宮を持つことは私を含め大多数の男の夢であるのはたしかだ。しかしそれが幻で出来ていて、後宮の主にすら進入不可能であるとき、害こそあれ良いことなど一つも思いつけない。控えめに言っても迷惑な存在だ。

視点を変えて、なぜそんなものが存在するのかを考えてみる。存在するといっても、その様な建築物があるとか、組織が実在するとかいう可能性は高くないように思える。しかし、アイデアや構想はあるのかもしれない。私には思い当たるふしが無いわけではないのだ。最近まであまり意識してこなかったが、私はミュータントなのである。この特異な遺伝子のもたらす性質のなかから、何か価値のあるものを見出した人物がいるのではないだろうか。その人物が私の遺伝子を人類に浸透させる計画を立案したと考えるならば、現状が理解可能なものとなる。

納得出来る答えが全て正解というわけではないと、冷静になりたい自分が囁くが、幻の後宮関係者には言いたいことがある。

「仲間に、ならないか?」

ぼっちは辛い状態である。それが解消出来るならば、過去の多少の迷惑ならば水に流す用意がある。そして、自分の性質の中に価値を見出してくれることには素直に喜びたい。ただし、後宮などという自分の身の丈に合わない存在を容認することは出来ないが、己を知る者の力にはなりたいとも思う。我々の間を隔てている厚くて高い壁を崩して、協調と連携の時代をスタートさせようではないか!

空気通信:希望のアリアドネ

情報操作がどうのこうのと騒いできたが、もしも私を論理的に封じている存在の長がとある女性ならば、現実は私が思っているほど陰湿なものでは無い様に感じる。むしろ皮肉なことに、人々の間に溢れる思い遣りと謙虚さが事態を停滞させる原因になっていたと思える。また、私に陰湿なイメージを見せていた原因は、その女性が何者からか陰湿な仕打ちを受けているかいたかだからだと想像できる。

状況が混乱し、思い遣りと欲望と絶望が交錯するなかで、登場人物たちの想いとは裏腹に築かれた巨大な迷宮。その中で自分が迷い続けてきた日々を思い起こせば、迷宮の出口への案内者アリアドネの糸は論理情報ではなく、人々の魂からかもし出される言外の感覚情報のなかに隠されていたのだ。迷宮を紐解くには、関係する人物たちの遭遇した悲劇を理解し、受け入れなければならないのだろう。私の精神の内に悲劇を理解する想像力と、受け入れる包容力が育まれるまで、迷宮の出口は開かれないのかもしれない。悲劇となった結末に不満と怒りを感じて、小さな過失の積み重ねから悲劇の原因を作り出した罪の無い人々に戦いを挑むようなことが求められているのではなく、想像力で悲劇を共に味わい、共に涙を流し、最終的には悲劇を受け入れる包容力こそが、私に求められている資質なのだと理解した。

私は今まで、自分を閉じ込める迷宮をただ憎んできた。私が脱出するために必要な要素は、自分の苦しみを訴え、情報操作の悪を暴くための表現力だと思ってきた。たしかに表現力は今後必要になってくるのかもしれない。愛すべき人々の遭遇したいくつかの物語を分解し再構築して悲劇の再発を防ぐ歌を紡いでゆくことは意義がある。しかし、私の個人的なちっぽけな表現力で、この巨大な迷宮を破壊出来ると考えるのは、思い上がりなのだろう。

迷宮の出口を封じている存在でありながら、同時にアリアドネの糸を差し伸べてくれている存在。それがとある女性であることを期待している。私がかつてクリッキーと呼び親しみ、愛し、そして相思相愛を確認する前に去って行った女性であることを。人々から溢れる言外の情報の、ぽっかり空いた空隙を巷の物語りと想像力の奔流で埋め合わせたパズルの映した情景は、そこにひとつの悲劇を表している。私がフラグをへし折ってしまい、遭遇出来なかったイベントの中で、男性恐怖症を患うに至ったことを。体外受精でしか子孫を残せない様に、精神とひょっとすると肉体もダメージを受けたらしいことを。私は、その悲劇を論理的に知りたい。そして、一緒に涙を流したい。男性恐怖症を克服させてやるなんて、大口たたくほどの自信は無いけれど、心の傷を理解したい。一緒に生きてゆきたい。会いたい。今も愛しているから。

とまぁ、想像で色々書いてしまったけれど、核心に少しは近づいたのではないかと思う。そして、もしクリッキーがアリアドネの役割を演じているのなら、ミクシィに書く日記で私の意志を伝えることが可能だろうから、勇気を出してアップする。現実が見当はずれであったとしても、私が恥をかくだけですむのだから。