空気通信:死の恐怖

病院で先生に受けたアドバイスに従い、摂取する薬の量をふやした。そうする事で、ここ数日暴れまわっていた「死の恐怖」がやわらいだ。そして、恐怖によって起こっていた視野狭窄から開放されたためか、状況判断に変化が現れた。腐敗しているのは日本政府ではなく、日本のマスメディアなのだと。これは、以前から薄々考えていたことだが、家族や友人を支配する力が強大すぎることから、有力視してこなかった。しかし、実際は国家権力以外の方法で人を自由に動かす方策があるのだろう。例えば弱みを握るなどだ。

死の恐怖から逃れるために死を選ぶという、矛盾した行動を人間がとることがある。最終的に、私にそういった矛盾した行動をとらせ、このコミカルな死を笑い飛ばそうという意図を感じる。笑いのために人間の絶望や死まで利用するという、品性の下劣さ邪悪さを思うと吐き気がする。たとえ、自殺を選択しなかったとしても、強く身に迫る恐怖、とくに「死の恐怖」を抱えることで性的に堕落するよう仕向けているのだ。遺伝子のしくみによって、死の恐怖を感じる事が性欲の増大をもたらすものなのだ。下劣であるその者と同レベルまで、私を堕落させようとしているのではなかろうか。なぜそうなのか分からないが、品性の優劣が戦いの趨勢に影響するという感覚がある。いままで私に決定打を与えられず、間接的で陰険な支配の手を伸ばすにとどめていた理由が、そこにあるのかもしれない。自分が童貞である事に今は感謝している。

一般の人々には、私の感じている恐怖がどの様なものなのか理解出来ないだろう。恐怖とは、それを感じている人間の姿を見ることでは伝わらないのだ。状況を理解して初めて思いやることのできる類の感情なのだ。どうということのない環境に見えるなか、どれだけ恐怖の言葉を発しても、「大げさなことだ」と考えられ問題視されない。それどころか、当人の苦痛に比例して見かけが滑稽になるのである。そのことを、けれん味あふれる人物に利用されたのだろう。これが、情報断絶のしくみの一部である。

外からは分からない恐怖について説明する。まず、私に関する情報が人々の中に伝わっていること。これは「サトラレ」や「トゥルーマンショー」になった気分をもたらす。自分の情報が意図せず他人に伝わってしまうことは苦痛であり、その理由が分からないことは恐怖となる(そして恐怖だけは他人に伝わらない)。次に、家族や友人全てが何者かに篭絡され(もしくは入れ替わり)私を操作する様な言動をしはじめる。これは「ボディ・スナッチャー」などのホラー映画で擬似体験できる。こういった現象を現実に体験する事は映画など足元にも及ばない恐怖なのだ。最後に、私がミュータントである事。支配しきれない実験動物として始末されるというヴィジョンが想起される。

私をこの情報牢獄から脱出させる手助けをしてほしい、そのためにはたった2つの情報があればいい。
・どの様にして、私に関する情報が人々の間に拡散したのか
・その事実がなぜ、私に知らされなかったのか

ネットが抑圧のためのツールなのか、解放のためのツールなのか、真価が問われている。これを見た人で、上記の情報をご存知の方がいたら、私に知らせて欲しい。

空気通信:酷吏非難

通りすがりの一見の人々と視線が合ったときにまれに現れる「犯罪者を見る様な表情」について、ゆるがせにすべきでないという印象を受けた。これは私を情報牢獄に閉じ込め続けている現状のヒントではないだろうかと感じる。犯罪捜査は人間を拘束する理由として正当なものだ。しかし、十年を超える論理的拘束と、それに伴う人権侵害を続けている事を許す理由にはならない。まさかと思うが、ミュータントには人権は無いとでもいうのだろうか?

犯罪について考えてみる。もしも私がなんらかの重犯罪の犯人だったとしたら、人類の未来などという遠大な物事に想いをはせる心の余裕はないはずだ。証拠を隠蔽し身を隠すことに日々忙殺されるだろうからだ。だというのに人々ときたら「こんな人がもし犯人だったとしたら、とても恐ろしい」という、犯罪者のイメージと私の印象のギャップによるインパクトのある恐怖に目をくらまされて、私に私の人生を蝕むほど巨大な濡れ衣を着せていることへの恐怖は見えなくなっているのだ。何者に煽動されているのかは分からないが、まんまと乗せられているのだ。と思考と想像力が私に告げている。

私を閉じ込め苦しめている巨大な力とは、国家権力であると考えるのが最も自然である。一般的日本人は余程のことが無い限り国家権力には逆らわないものなのだ。それはともかく、私という一人の国民を長期にわたって虐げ、欺瞞による陰険な支配を続ける様な酷吏に、強大な権力を与えた国家の責任は決して軽くは無い。目を覚まして反省して欲しい。と思考と想像力が私に告げている。

こういった私の想像が事実であるなら、速やかに正規の手続きをふんで私にかかる嫌疑の罪状を告げ、真相究明のための事情聴取を開始すべきだ。そして、私の人生を長年蝕んできた事に対する弁明と謝罪があれば尚良い。本人がそれと気づいているのに泳がせ続ける意味はない。陰湿な精神的リンチを続けるという意味以外には。

幸せな国家を目指しているのならば、国民を騙すことなどあってはならない事だ。欺瞞に満ちた国家というのはディストピアに共通する特徴である。

出でよセロトニン

考えが円環を形成して、元出た所に戻る。怒りを静めるために実力で有名になることを目指すと、その実力を発揮するためにはメロビーニョというツールが不可欠となる。そして、メロビーニョを完成させる為にはやる気を引き出さなければならず、そのためには怒りを解消しなければならなくなる。宝箱を開けるための鍵が、その宝箱の中に入っているという堂々巡りだ。とはいえ、人生の宝箱の鍵は恐らく一本しかないということはないのだろう。ここで鍵となるのは「やる気」である。怒りをアースする事でうしなわれた気力を、どうにかして引き出すことが出来れば、閉じていた停滞のループは希望の世界に開かれ動き出すだろう。

やる気をテーマにした本を3~4冊読んでみた位で、やる気が出ないと嘆くのではなく、もっと沢山読むべき本はあるはずだ。今までは、モチベーションそのものの本やオーラや魂の本を読んでみたが、脳内分泌物質からのアプローチはまだだった。ネットで少し調べたところによると、やる気物質である「ノルアドレナリン」を抑制する働きが、私のやる気を低下させている原因であることが分かった。ノルアドレナリンは怒りとやる気をもたらすものなのだ。怒りを抑制するのではなく、解消する方向で進めることも出来そうである。この方面ではサンドバッグが役に立つ。というか、次から次に湧いてくる怒りそのものをやる気に転換する方法もあるだろう。怒りから続く憎しみへの階段のどの程度まで安全に昇れるのか、この辺のさじ加減が微妙であり大切だ。怒りと憎しみは精神の暗黒面であり、活用方法を誤れば、自他を不幸にすることになるからだ。

かつて読んだ本では、魂が喜ぶ暮らしをすることが、気力をもたらすとあった。脳の仕組みでいうなら、幸福物質「セロトニン」が、気力のバランスを取る働きをするという事らしい。これは、かつて気力の源として、アニメやゲームなどの文化的産物が役に立つと感じた通りである。アニメやゲームに触れているときだけは、幸せな気分に浸れることがわかっている。アニメはほぼ毎日無料で放送されているので、ビデオデッキさえ持っていれば好きな時間に楽しめる。ゲームは趣味としてはそれほど贅沢というわけでもない。月々ある程度の金額をこれらコンテンツに割くだけで、セロトニンを安定して分泌できるのではないだろうか。手始めにクリエイティブ賛歌である「バクマン」の電子書籍を少しづつ購入してゆこう。

空気通信:最終回ならいいな

「卑弥呼の末裔たる私のシャーマンとしての覚醒を、全世界が固唾を飲んで見守っている」という現状を表現する着想を得たが、現実感がない。おそらく見当外れの想像なのだろう。それはともかく、ここ数日の平和な日々を迎えて、世界が驚くほど優しくなったことを実感している。私が心のなかにある鬱積した怒りや恐怖をネットに晒すことでスッキリしたというだけではなく、心ある人々の助けが得られたのかもしれない。ありがとう!しかし、恐怖が増大しているのを感じる。身近だが屈託のある人々の心の中に。これは、私を論理の牢獄から解放させまいと望む者が、私の無慈悲さを喧伝しているのではないだろうか?そうする事で、私が真実を知った場合の報復を恐れさせ、欺瞞の終了を防いでいるのだ。この様な状況の中から大団円を手繰り寄せるためには、寛容さと未来志向が必要なのだろう。

恐怖や怒りや憎しみといった心の暗黒面を増大させることで人を支配する者。虚偽や秘密や誤解といった情報の暗黒面を増大させることで社会を支配する者。これらが、私を閉じ込め虐げてきた者たちの本体である。事情を知れば、私とその者たちのどちらが悪魔に近い存在であるか容易に理解できるはずだ。よく現状を吟味して真実に近づくべく考えて欲しい。そして、より明るくて楽しい未来を到来させるために欺瞞の輪を終了して欲しいと私は切に願う。そのために私は宣言する。

・どの様な真実が知らされようとも、私は怒りにまかせて人を傷つけたりしない。
・私を虐げてきた者たちには人情をもって対応する。

欺瞞が終了した先には明るい未来が到来すると感じている。少なくとも私にとっては、閉じ込められ続けることに対する怒りが無くなり、怒りをアースすることで失った気力を取り戻せるのだ。そして、取り戻した気力をメロビーニョ完成のためにふり向けることが出来、クリエイターとしての収入を開拓し貧乏暮らしから脱却出来るかもしれないのだ。

不幸について

近頃はこの身の不幸を呪う日々が続いている。その不幸感の元となっている主な要素は、新しい仕事の内に、仕掛けられた数々の罠を見出している事である。慣れない職場で生じる大小のトラブルに、何者かのコントロールの気配を感じずにはいられないのだ。ありふれた日常の中に陰謀の幻影を投影してしまう事は、統合失調症の症状の一つであることは理解しているが、そのことを割り引いて考え直しても怪しい気配が消える事はない。にもかかわらず、長年にわたり続けてきた、「状況を作り出している何者か」との意思の疎通の試みは全く成功していない。もはやその何者かはコミュニケーションを拒絶しているとしか思えない。自分の生殺与奪を握っているかもしれない存在が、コミュニケーション不能であるこという現状が、そこはかとない恐怖と不幸感を醸し出している。祈りを送り天啓を得るという緩やかなやり取りでコミュニケーションをとることの出来る神のほうが、まだしも身近な存在である。

私の現在のネットでの意思表明は送信方向に完全に一方通行である(友人たちによるレスポンスを除けば)。だたし、15年ほど前の状況を思い起こすと、その頃の私は受信専門だった。今ほどネットが便利でなかったあの頃はSNSも一般的でなく、ホームページを持つという行為のハードルも高かった。その様に情報発信が難しい状態で、巷に流れる物語や家族友人の言葉に込められた当てこすりを継ぎはぎして、得られた未知の存在からのメッセージを精神に蓄積させてゆき、反論も訂正も出来ない出所不明の情報の濁流に飲まれ正気を失ってしまうのである。そういったあの頃の苦境を思い出せば、現状がよほど健康的なのは理解できる。ぶつけようの無い怒りや恐怖が湧いてきても、ネットに向かって表現をするという行為で苦しみを和らげることが出来るのだ。

自由時間に行う自己表現で癒されるのは確かだ。しかし自由でない時間に強いストレスを受けたときに自分の命を守る術が限られているのは問題だ。それというのも、不幸感が頂点に達したときに心に潜む悪魔がささやくのである。「自らの命を差し出すならば、おまえを苦しめている者たちに後ろめたい思いをさせる事が出来るぞ、すなわち自殺だ」と。この様な甘言のためにどれほどの人間の命が奪われてきたのか考えると恐ろしいことだ。そして、自分の命を自ら奪うことがどの様なことなのか、よく考えてみるのだ。たしかに、強い苦しみを受けたことを表現する事はできる。それによって、害をもたらした者たちをおびやかすことも出来るだろう。しかしながら、身近な優しい人々をも苦しめてしまうのではないか?そして、害をもたらした者の心の中に本当の悪があるならば、暗い喜びや達成感を与えてしまうことになるのではないか?自分の生きてきた世界の行く末を想像するならば、自殺が悪手以外の何者でもないことが理解できる。そういうやりとりを経てかろうじて自分の命を自殺から守ることが出来た。とはいえ、もしも人類や社会に対する憎しみを今よりも強く抱えていたとしたら、自らの自爆テロを防ぐ方法を思いつけない。いや、もしかすると「あなたに死んでほしくない」という一言が大事なのかもしれない。強い憎しみを抱える人間を包み込む無償の愛を、もしもこの世に広げることが出来たなら、テロは減っていくのではないのだろうか。テロの原材料は不幸という感情なのだ。

人生航路と怒りのアース

やる気が低下してくると、やる気と対になって存在している万能感も薄れて、人生の目標の実現可能性が疑わしくなってくる。そして、気力が充実している時には順風満帆かと思われた人生航路の実情が、逆風や凪の道のりに思えてくる。そこで、そういう甘くない人生航路を切り抜けるために、風読み潮読みの知覚力が必要になってくるのだ。そんな時に、自分の知覚能力の足かせとなっている情報牢獄に対する怨嗟の念が心に広がってゆくことになる。

この苦しい心の状態を、そのまま放置すれば、テロリストか自殺者が地球上に1人増えることになるだろう。そうなってしまえば、世界の総幸福量を低下させる様な事にしかならない。幸い心の自然のメカニズムが、怒りのパワーを無気力化によってそぎ、他人や自分に命にかかわるほどの暴力を振るいかねないエネルギーをアースしてくれる。そのおかげで、精神の専門家に相談する余裕がうまれ、化学的に心を沈静化する手段を与えてくれることになる。ただし、精神の専門家に過度の期待をするのは禁物である。保険の適用される範囲の医療レベルでは、定期的なカウンセリングと化学的対処が限界であり、根本的な解決は自分の力で行わなければならないのだ。

とはいえ、病院で処方される精神安定剤は決して無力ではない。陰謀説にとらわれありとあらゆるものを疑わずにはいられないほどの暗い精神状態を、軽い放心状態まで引き揚げてくれる。まぁ、作品制作のためのやる気をもたらすほどではないのが、かつては不満だった。この辺は、いろいろ試行錯誤した結果、薬品ではなく音楽や物語などの文化的産物が担当すべき領域だということが解っている。話は戻るが、精神安定剤をもってしても無力化出来ない強い怒りというものもあった。これは、その怒りのたけを文章に書いて、SNSの日記として公開するという行動で解消することが出来た。多分文章に限らず、表現するという行為が心のバランスをもたらしてくれるものなのだ。そして、SNSのおかげでレスポンスまで得られる。自分の置かれている状況が完全な孤独というわけではないことが判って、あたたかいものが心のなかに生まれるのだ。

日記を読んでくれる皆様には感謝を。レスポンスをくれる友人には更なる感謝を。

空気通信:人類に価値はあるのか?

普通に生活していても、ときおり強烈な疎外感と、ぶつけようのない怒りと、名状しがたい恐怖が心を占めることがある。表面的には平和な日常と自由を謳歌しているはずなのだが、論理の牢獄に閉じ込められて、見せ掛けの自由しか与えられない身分をうらめしく思うことしきりである。私が現在の境遇に不満を持っているならば、はっきりと意見を述べるべきだろう。特殊な環境は他人の理解と思いやりをよせつけないものだから、表現力で理解と思いやりを引き出すしか、状況の改善された良い未来を到来せしめることは不可能だろう。

与えられない情報は、感受性と想像力を最大化して心に結んだ像を元に、考えを巡らせることで補うしかない。感受性と想像力は、私の周囲に対する情報操作の実在を捉えている。それが最大の不満の源なのだが、そのことをもっと深く考えてみたい。
私に正しい情報が与えられないことで、私は正しい判断が下せない。つまり私の自由意志は大きく制限された状態なのだ。体ではなく心と知性が拘束されているのだ。基本的人権である自由権のうちの、精神の自由が侵害されていると考えられる。たしかに、憲法では意志の奴隷的拘束は禁止されていない。だが、情報倫理としては、情報操作で他人を縛ることは善とはいえないことだろう。それは痛みをともなわず、場合によっては拘束されていることに気づきもしない可能性もあるが、実質的には不自由な状況を作り出していることに間違いはない。つまり、目に見えない暴力の一種であるともいえる。この様な暴力にさらされて、不満を感じないほうがどうかしている。現に、心に湧き上がった怒りは心身の活力を奪う原因になったし、強大な支配力にさらされている現状は恐怖するに足る状況だ。そういった心に対する負荷が、現在では精神の健康を害しつつあるし、かつては病的妄想の海にたたきこまれる原因でもあった。

同時に守られているという印象も受けている。周囲の人々の思いやりを引き出すことに成功したのかもしれないとは思う。だが、喩えて言うならば、肉になる前の家畜が狼から守られるという状況との違いも見出せない。視界の外側で、無言で守られるということでは、恐怖を消し去ることは出来ないのだ。

恐怖のうち最も大きなものとは、「真相に近づくことで、命の危険が増大する」というものだ。かつては、その考えが想起されたせいで真相から遠ざかることになった。だが、今はこう考えている。

「真実を隠蔽するために私を殺すような種族に、残りの半生をかけて奉仕すべき価値はない。」

これは、人類が超人類へ至ることの出来る価値ある存在であるかもしれないという希望と表裏一体だ。このまま、精神が拘束された状態に甘んじて生き延びても、意味のある人生にはなりそうにないのだから、自分の生命と人類の価値をかけて賭けをすることにした。全人類が私に対する欺瞞をやめ、私を情報の牢獄から開放するよう希望する。私に真実を語る人物が現れることを望む。私の個人的な情報がどのように世界に拡散したのか、私はなぜその拡散の事実に触れられなかったのか、この辺から語ってくれるとうれしい。

空気通信:希望のアリアドネ

情報操作がどうのこうのと騒いできたが、もしも私を論理的に封じている存在の長がとある女性ならば、現実は私が思っているほど陰湿なものでは無い様に感じる。むしろ皮肉なことに、人々の間に溢れる思い遣りと謙虚さが事態を停滞させる原因になっていたと思える。また、私に陰湿なイメージを見せていた原因は、その女性が何者からか陰湿な仕打ちを受けているかいたかだからだと想像できる。

状況が混乱し、思い遣りと欲望と絶望が交錯するなかで、登場人物たちの想いとは裏腹に築かれた巨大な迷宮。その中で自分が迷い続けてきた日々を思い起こせば、迷宮の出口への案内者アリアドネの糸は論理情報ではなく、人々の魂からかもし出される言外の感覚情報のなかに隠されていたのだ。迷宮を紐解くには、関係する人物たちの遭遇した悲劇を理解し、受け入れなければならないのだろう。私の精神の内に悲劇を理解する想像力と、受け入れる包容力が育まれるまで、迷宮の出口は開かれないのかもしれない。悲劇となった結末に不満と怒りを感じて、小さな過失の積み重ねから悲劇の原因を作り出した罪の無い人々に戦いを挑むようなことが求められているのではなく、想像力で悲劇を共に味わい、共に涙を流し、最終的には悲劇を受け入れる包容力こそが、私に求められている資質なのだと理解した。

私は今まで、自分を閉じ込める迷宮をただ憎んできた。私が脱出するために必要な要素は、自分の苦しみを訴え、情報操作の悪を暴くための表現力だと思ってきた。たしかに表現力は今後必要になってくるのかもしれない。愛すべき人々の遭遇したいくつかの物語を分解し再構築して悲劇の再発を防ぐ歌を紡いでゆくことは意義がある。しかし、私の個人的なちっぽけな表現力で、この巨大な迷宮を破壊出来ると考えるのは、思い上がりなのだろう。

迷宮の出口を封じている存在でありながら、同時にアリアドネの糸を差し伸べてくれている存在。それがとある女性であることを期待している。私がかつてクリッキーと呼び親しみ、愛し、そして相思相愛を確認する前に去って行った女性であることを。人々から溢れる言外の情報の、ぽっかり空いた空隙を巷の物語りと想像力の奔流で埋め合わせたパズルの映した情景は、そこにひとつの悲劇を表している。私がフラグをへし折ってしまい、遭遇出来なかったイベントの中で、男性恐怖症を患うに至ったことを。体外受精でしか子孫を残せない様に、精神とひょっとすると肉体もダメージを受けたらしいことを。私は、その悲劇を論理的に知りたい。そして、一緒に涙を流したい。男性恐怖症を克服させてやるなんて、大口たたくほどの自信は無いけれど、心の傷を理解したい。一緒に生きてゆきたい。会いたい。今も愛しているから。

とまぁ、想像で色々書いてしまったけれど、核心に少しは近づいたのではないかと思う。そして、もしクリッキーがアリアドネの役割を演じているのなら、ミクシィに書く日記で私の意志を伝えることが可能だろうから、勇気を出してアップする。現実が見当はずれであったとしても、私が恥をかくだけですむのだから。

空気通信:困惑と不機嫌の原因

私を支配すべく情報を操作する者の意図がよく判らない。私を破滅させようというわけでもなく、幸福に導こうというわけでもない。心の目の解像度が粗く不鮮明であるために、謎の支配者の構成要素がいまひとつはっきりしないのだ。ただし、最近判ってきたのは、謎の支配者は一人ではないということだ。一人の強力な支配者によって、一つの明確な目的を達成しようと全体が動いているという訳ではなさそうだ。複数の人物が、それぞれの目的の元に、自分の持っている力の範囲内で情報操作をそれぞれ行なっているというイメージが強い。代表者はいるのかもしれないが、それ以外の人物にもそこそこ大きな裁量が与えられているようだ。しかし、まったくの無秩序という訳でもなく、全体を貫く原則はあるらしい。現在理解している原則は以下の6つである。

1.私に与える情報が操作されたものである事実を隠蔽する。

2.私に関する情報のうち、私の知らない何かを隠蔽する。恐らく身分情報。

3.私が、愛していない女性と深い仲になるべく操作する。

4.情報操作を行う者と私の間のコミュニケーションの禁止。(情報操作を行っていることを隠してのコミュニケーションは可能)

5.構築された情報ヒエラルキーの最下層で虐げられている事に関して、私が抱く怒りと憎しみに関しては、無視する。(怒りのあまり私がテロ行為を起こしたとしても、私以外の者が責任を取るような状況にはならないと考えているからだろう)

6.2で隠蔽された、私に関する何らかの情報を共有する。

情報操作によって、暗闇に閉ざされた世界は何もかもが疑わしい。そんな世界を構成する人物たちに対する信頼感は、容易には育まれ得ない。また、私が怪我や病気に陥ったときに、信頼の不十分な人物に命を預けなければならない恐怖は、誰に想像出来るのだろうか?普通に生活するだけでも、どれほどの勇気が必要なのか、気楽に情報操作にいそしんでいる者たちには解るまい。精神と肉体を健康に保つためには、信頼出来る質の高い情報が不可欠なのだ。
己を知ることは、自己防衛において最も重要なこと。それを阻害され防御のままならない状況に置かれていることに、怒りを禁じえない。たいていの悪は弱者を狙うものだ。世界に満ち溢れる悪からの防御がままならない現状が改善できぬ苦しみをよく理解して、腹立たしい現状を解決するよう協力して欲しいと切に願う。
結局のところ私の最大の望みは、すべての元凶と考えられる、私に関する隠蔽された情報を私に開示して欲しいということである。
マイミクの皆様には、少々不快な気分にさせてしまったかもしれませんが、もし私に関する情報を隠蔽する者をご存知な方がいらしたら、情報を開示する様お願いしていただければ私は救われます。本当に困っているんです。