「ひぐらしのなく頃に」を見て考えた

時間物語にはリアリズムとロマンチシズムを統合する力が潜んでいる。両者を融合させる触媒はオプティミズム。

ここ数日の間に、「ひぐらしのなく頃に」「ひぐらしのなく頃に解」「ひぐらしのなく頃に礼」のひぐらしアニメ三部作を最初から見た(礼のOVA5巻は貸し出し中だったのでまだ見てないが)。考えさせられるものがあった。なぜなら、主人公たちがそれぞれ別々の時空で落ちていった疑心暗鬼の闇には、身につまされるものがあるからだ。物語の中で「虚偽、秘密、誤解」といった人間関係を破壊する情報毒と、その害を増幅する感染症に、彼らの友情が負け続ける。しかし、それだけでは終わらない所がいい。繰り返される閉じた時間の旅行者である梨花とはにゅうは、惨劇の裏に潜んでいた大きな秘密と、その奥にあるくじき難い想いを発見し、最終的には到達不可能かと思われた大団円をたぐりよせることになる。

考えさせられる物語を観て、考えた。人間関係を破壊し、コミュニティをクラスター化してしまう情報毒に対抗する方法は無いだろうか。誠実に生きることは、ある程度効果があると思う。それでも、誤解と虚偽の嵐の中にほうりこまれたら、ひとたまりもない。相手が誠実であればあるほど、その裏に潜むように見える恐ろしい幻影の迫力は増し、本当はありもしない秘密というものを知ることに対する魅惑の香りは衰えるということがない。

疑心暗鬼に陥りかけた魂は、信仰心によって救われる事もあるだろう。しかし、神の奇跡を簡単に見ることの出来ない現代人が、強い信仰心を持ち続ける事は難しいのではないだろうか。私は信仰とは独立して存在する心の支えを探した。そして、

「未来に嘘はつけない」

という一原則にたどり着いた。これは、真偽の定かでない情報の濁流をかき分けて生活している現代人にとって、愚かしい考えに思えることかもしれない。しかし、私はこの考えを信ずる。なぜなら、人類の調和と発展を求めてゆく先の世界に、タイムマシンが無いはずはないからだ。そして、タイムマシンを保有する時代の人間にとって、歴史とは虚偽の入り込む余地の無いものだろうから。

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